(148) 江戸の珍談・奇談(21)-4
15.12.28
先に市右衛門方で病を患った時、最早快癒はおぼつかないと覚悟した登波は、亭主に事件の委細及び自身の志を語っていた。市右衛門の次男亀松は、登波より15歳ほど年下であったが、義気に溢れ、頼もしい好男子である。亀松には折から心願があって、讃岐の金毘羅へ参詣したいと思っていたところへ登波が現われたのだから、渡りに舟である。登波が密かに志を通じ、大望の相談をすると、助太刀を承知してくれた。父には人を介してこの旨を説得してもらうと、「素性も知れぬ女を連れて出ることなど不納得ではあるが、親兄弟の勘当を受けても助太刀し、大望を遂げさせてやりたいという考えなら、大願成就の上は、一人で帰国し、詫びを入れるということにして、お前に任せる」と市右衛門も言うので、親の許しを得たも同然と喜び、登波と連れ立って密かに宿所を出立した。
そこから、日光山、中禅寺、善光寺を参詣、飛騨、加賀、能登、越前の国々を探し求め、京都へ上り、また紀伊から四国へ渡り、讃岐の金毘羅へ参詣した後、安芸の広島へ着岸して、そこで初めて龍之進の所縁が高田郡秋町村にあることを聞き出した。だが、そこへ度々赴いたが、どうにも在り処が分らないでいるうち、同郡吉田に、龍之進の老母が住むという情報を探り当てた。吉田を尋ねて行き、「我ら夫婦は関東の者である。この辺りに剣術指南の浪人、名を失念したが、その老母とやらの所縁があり、時折この辺りへ来られる由を承っている。お聞き及びはないか」とあちらこちらに聞いて回る。
吉田から半道ほど下った畑で鍬を揮う男が、いかにもよく龍之進に似ている。登波はこれだろうと思い、亀松と内談し、もし仇龍之進なら、懐刀で切り殺すつもりであるが、さすがの龍之進、もし返り討ちに遭った時は、助太刀の上討ち果たしてもらいたい、と登波が言うと、心安く思ってください、と亀松が返す。男に近寄って、少々お尋ねしたいことがある、と問いかけると、頭の手拭を取り、何事ですかと言う男の顔をよく見れば、全く龍之進ではない。「私どもは関東の者で、物詣にこの辺を通りがかりました。近所の男で、先年剣術指南の門人になっている者があります。その方に大分厚恩を蒙ったとかで、お目にかかりお礼を申し上げてくれるよう頼まれたのです。お名前は忘れました。お心当たりはありませんか」と尋ねたところ、男が心当たりの人相を話したが、年齢が40歳くらいだという。龍之進とは合致しないため、「頼まれたお方は50歳ぐらいと承った。私どもは無筆だから知らないが、噂ではその方は字も学問も達者だけれども、師匠について上達した者とは見えないと聞いている」とさらに詳しく持ちかける。それなら龍之進という者ではないか、と男が言う。これこそ仇龍之進のことだと飛び立つごとく思うけれども、わざとお名前は聞いたが覚えていない、と言うと、お前様方は龍之進のお仲間か、と問い返された。いやいや、龍之進とはどんな方か知りません、私どもは関東の小百姓ですから、と誤魔化す。「この辺は被差別の村で、龍之進もその仲間である。お百姓ならここにお泊りになることはできない。ここから2里ほどお下りになったら、そこに龍之進の母兄ともに住んでいるから、その辺でお尋ねになれば、詳しく知れよう」と男が言う。「私どもは伝言を依頼されただけだから、強いてお会いすることもない。お会いになったら、この段をお話しください」と頼んでそこを立ち去った。
この男は、登波の顔色を怪しんだのか、後に、龍之進が殺した男に娘があったと聞くが、それではないか、と独り言につぶやいたという。
登波は、益々発奮した。川筋に沿って下れば、小村がある。ここは三次(みよし)から1里ほど上がった所である。備後三次郡の中で、安芸領とされている。そこの百姓屋に一宿し、龍之進のことをそれとなく問う。すると、「九州彦山(ひこさん)に娘が住みついているとのことで、その辺りへ行っているのではないか。近年はこの辺りへは帰っていなかったが、一昨年ごろから帰っており、再び春の頃から旅行し、ここにはいない。彦山へ行っているに違いない」と語る。時に、3月3日のことで、所の慣習によって、物貰いが現れた。老婆と男の二人である。すなわち、あれが龍之進の母と兄である、と宿の者が教えてくれたが、話を逸らして確かに返答もしないままにした。
明朝宿を出て、近所に2泊し、夜な夜な龍之進の宅へ立ち聞きしに潜んで行った。家にはいないことが明らかとなったため、敵龍之進は彦山にいるに違いないと決し、嬉しさは言いようもない。亀松も年来の約束通り助太刀するつもりだというので、ひとまず国に帰り、願い出の上で段取りを決めることとした。
石見にかかり、大森、銀山を通り、城下萩松本へ帰り、浜崎の目明(めあかし)与八という者に会い、積年の志願により、所々方々辛労しつつ遂に賊の在所を探し当てたことまで話し、何分敵討ちをさせてくれるよう願い出てもらいたいと頼んだ。だが、一応在所へ帰り、先大津(さきおおつ)の目明に取り次いでもらい、願い出るようにと言うので、直ちに角山村へ帰着した。天保7年-1836-4月のことである。(以下次号)