短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(147) 江戸の珍談・奇談(21)-3

15.12.12

登波は、仇の行方を知るべく心は逸るけれども、夫幸吉の病気にかまけて日を送っていた。翌年には大分快気し、2月11日には召し出されて、一件の始末について究明を受けるほどに回復したものの、数か所に刀傷を蒙ったため、精気を失い、身体も衰弱が甚だしくなる。以前のような働きは出来ず、一両年は病床勝ちで、とうとう癲癇病に変じてしまう。登波が懇ろに看病し、寝食について何かと心を配ったけれども、平癒しない。こうして3・4年が空しく過ぎてしまった。

登波の心底には、父・弟の横死を悼み、勃々と湧き起る復讐の念が消えることはない。このままでは仇の蹤跡(しょうせき)も絶え果て、年来の宿願を果たすことができないままになってしまう。そこで、一日、幸吉の病の小康を得た折、復讐の願いを語ったところ、幸吉は、「お前にとっての父・弟なら、夫である俺にとっても父・弟だ。妹松を殺害した仇だから、俺も敵討ちを助けたいが、この病で空しく時を過ごしてしまった。お前の決心を聞いたからには、一刻も早く出立するがいい。俺も全快したら、すぐに後を追うから」と快く諾してくれた。

夫に篤く礼を述べ、夫の世話を懇意の者に託すと、志を励まして、登波は、文政8年-1825-3月、名残を惜しみながら家を出発した。滝部の事件から5年目、幸吉39歳、登波27歳、幸吉に嫁してから9年目のことである。これが今生の別れになろうとは、両人とも知る由もなかった。

川尻を出た登波は、萩を通り、奥阿武(おくあぶ)郡から石見へ移り、津和野城下へ越え、高角人丸社へ参詣の後、浜田、銀山、大森を経て、芸州筋の事情も問い合わせたけれども、龍之進はどうも広島辺には足跡がない。4人も切害した大悪人であるから、近国に留まるはずもなかろうと、出雲へ越え、大社、日御崎(ひのみさき)等へ参詣し、松江辺をかれこれ探索し、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)、因幡(いなば)の鳥取城下を通り、但馬、丹後、若狭へ出て、この辺で越年したという。

翌9年は、近江、美濃、伊勢、紀伊へ廻り、高野山へも立ち寄った。女人禁制の場所まで探り、和泉、河内から大和へ至って越年している。登波がつらつら考えるに、京都・大坂は長州の国人がたびたび立ち寄る所だから、決して足を止めるはずはないと思い、大和から伊賀を経て、再び近江へ戻り、大津駅から三井寺、比叡山その他へ迂回し、京都中の神社仏閣を拝礼して、丹波の亀山、摂津勝尾寺、播磨書写山から大坂へ出て、淀船で伏見に上った。

これは、いよいよ仇は畿内近国にはいない、奥羽、関東へ立去ったのだろう、と思い定め、美濃から木曽路を東へ下り、信濃に入って飯田の城下を通り過ぎ、上諏訪、下諏訪、和田峠と越え、善光寺へ参詣の後、越後へ抜け、今町を通って新潟に至る。さらに、陸奥へ入り、会津の城下を通り、仙台へ出ると、なお東へ下り(このまま東へ進むと太平洋へ出るが、原文のままとする)、南部の恐山にも参った。東北の果てにある恐山で内地は尽きる。海を隔てて蝦夷松前に繋がる所である。

さて、それから津軽に向かい、出羽を巡り、再び陸奥にかかって、岩城を経て常陸に出る。筑波山に登り、下野の日光山へも参詣した。遂に江戸に出ると、ここに3年滞留しながら、所々方々を捜索した。

その後、水戸街道中にある常陸筑波郡藤代宿にも留まり、また同郡若柴宿の百姓市右衛門方にも宿した。この時すでに33歳になっていた登波は、突然病に冒され、百日余り病の床に着いてしまう。市右衛門が懇切に介抱してくれたお蔭で、快気後、上総、安房などを経巡り、また若柴に戻ると、先日のお礼奉公として、農家の手伝いをしつつ、一両年を過ごした。

宿所を出立した登波は、江戸から相模、伊豆の最南端にある出崎、手石弥陀、石廊(いろう)権現までも拝礼し、東海道へ出た。遠江(とおとうみ)の秋葉、三河の風来寺などへ立ち寄り、宮の渡しを渡って奈良へ過ぎ、紀伊国加田へ出て、十三里の渡りから阿波の撫養(むや)へ上陸、土佐に移って、伊予を過ぎると、讃岐(さぬき)から備前田ノ口へ上がり、所々を尋ねたものの、遂に龍之進の消息は知れない。そこで、三たび常陸の若柴宿を目指して帰ることとしたのである。(以下次号)

(G)
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