(146) 江戸の珍談・奇談(21)-2
15.12.04
午前2時過ぎ、龍之進が、最早出発したいから茶を沸かしてくれと言う。甚兵衛と勇助が起き出し、茶を沸かし、飯を供していた時、文後も同じく起き出して暇を乞うのだが、依然雨が止まない。龍之進は、たびたび障子を明けて空模様を確かめている。甚兵衛らは少しまどろみ、文後も横になりに三畳へ戻った。うとうとしていると、龍之進が、灯火が消えたから付け木を取って来い、と松を呼び起こす。松は、付け木は仏壇の下にある、と寝たまま答えたため、甚兵衛が、不案内の者に分かるはずがない、お前起きて火を着けろ、と命じたものの、松は、離縁した人にそんな義理はない、と突っぱねる。
捨て置きかねて甚兵衛が起き出して火を着け、薪を取りに外へ出た途端、龍之進は、松・幸吉・勇助の三人を切害してしまう。帰って来た甚兵衛をも戸口で切り倒す。甚兵衛は、大きな煙管(きせる)で応戦したが、受け止めきれなかった。文後は物音にうち驚き、帯を結びながら開いている戸口を覗いて見ると、甚兵衛が倒れ、庭の垣根際に龍之進が抜き身を提げたまま佇んでいる。何事だと声を掛けられ、龍之進は、言うことを聞かないから討ち捨てたのだと大音で答える。怖れをなした文後は座敷の隅に隠れ、夜明けとともに出て見ると、幸吉・松・勇助の三人が切り倒されている。庭の隅に潜んでいた利右衛門と相談し、急いで目代所へ届け出た。
午前8時、戻って見ると、甚兵衛の息がまだ絶えていない。助け起こして座敷へ運んだが、間もなく絶命してしまう。勇助は即死だった。松は11月3日の夜まで存命した。時に甚兵衛54歳、勇助19歳、松29歳である。幸吉は九死に一生を得、頭を手拭で巻き、介抱されているうちに、ようやく知音が集まって来た。
龍之進と文後が昵懇となったのは、この春前、大津三隅(みすみ)村で同道一宿しただけの間柄で、この度の一件も、文後の臆病に乗じて、龍之進が手先に使ったのだった。
さて、川尻で夫の留守を一人護っていた幸吉の妻登波の所に、11月1日の日暮れ、悲報が入る。29日の夜、滝部で大事件、詳しくは小触(こぶれ)の所に来た飛脚に問うがよいとのこと。飯を櫃に移そうと杓子を持った姿でこの知らせを聞くや、裸足で走り出し、飛脚に問う。4人切害されたうち、年長の者と年少の者は即死だったという。父甚兵衛と弟勇助に間違いない。直ちに庄屋大田市兵衛方に駆けて行き、これから滝部村へ馳せつけたいから許してくれ、と哀願する。
女一人では不安心だと庄屋はその挙を押し止める。仕方なく、飛脚に同道を頼むこととした登波は、飛脚が夜が明けなければ出立できないというので、終夜腰も掛けずに待ち続ける。心が急くまま飛脚を強いて起すと、午前4時ごろ出発し、8時ごろには滝部に達した。案の定、父と弟は殺害され、幸吉及び妹松は大怪我を蒙って臥している。この有様を見るに、驚きもし、怒りもし、加えて無念さが言いようもない。
同日御徒(おかち)目付前原忠右衛門、村田清右衛門が出張し、14日までに一件の検証・調査が済んだ。どうにも気が納まらない登波は、ひとえにお慈悲をもって仇を討たせてほしい旨、出張役人に嘆願する。だが、今の段階ではどうにもならぬ、この後、仇の住所が知れた時に申し出れば、許可が出るかもしれない、との回答である。藩庁でも様々な手立てを講じて龍之進の行方を探索したものの、遂に杳として知れない。
ところで、離縁の件は双方納得の上、酒を酌み交わすまでに折り合ったのだから、遺恨のあるはずはない。にもかかわらず、多人数を殺害に及んだ理由はなぜかと、事情聴取の節、再応糺されたのだが、幸吉も登波も、また文後も申し上げることに齟齬がない。売卜を業とし、棒術等を指南するような威勢を笠に着た男に対して、離縁一件につき、悪し様に罵ったこと、夜明け前に付け木を求めた時、松が不精の返答をなしたこと、それ以外に殺害に及ぶ動機の心当たりがない、と一同が供述したという。
だが、どうやら龍之進には別に密通した女があって、松を厭う心が生じ、夫婦仲が思わしくなかった。従って、兄幸吉とも不快な関係となった上、松が甚兵衛方へ行っていたことに嫉妬の念を起したためだとも考えられる。(以下次号)