短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(142) 松浦佐用姫の末裔

15.10.05

フィギュアスケートの浅田真央選手が、553日ぶりの復帰戦(10月3日のジャパンオープン)で舞ったフリーの曲は、オペラ「蝶々夫人」(ジャコモ・プッチーニ作曲、1904年)でした。一人の男性(アメリカ海軍士官のピンカートン)をひたすら待ち続けて裏切られ、最後は自刃して果てた没落士族令嬢の悲劇、蝶々夫人を選曲したことについて、浅田選手は「日本人として芯の強い女性を演じたいと思った」と言っています。

情感あふれる浅田選手の演技に多くの人が魅了され、「まるで天女のよう」といった感想が聞かれました。着物をイメージした薄紫色のコスチュームには袖がついていて、腕を動かすと両袖が領巾(ひれ:上代、主に女性が首にかけ、左右に長く垂らした薄い布。)のように揺れ、風に靡きます。一振り一振りするその遠い先に、あたかも愛する男性がいるようで、出征する夫の乗る船を高い山の嶺で領巾を振って見送ったという松浦佐用姫(まつらさよひめ)を思い出しました。

松浦佐用姫は、昔、肥前国(佐賀県)の松浦の東方に住んでいたという女性で、『万葉集』には松浦佐用姫伝説を題材にした歌(巻5・871~875番歌)が収録されています。871番歌の題詞によると、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、朝鮮半島の任那(みまな)救援に赴く途次、松浦佐用姫と契ったが、佐用姫は夫・狭手彦との別離を悲しみ、高い山の頂に登って領巾を振り、魂も消え入らんばかりに、遙かに遠ざかり行く夫の船を見遣ったとあります。それを見た人々もみな泣いたので、その山を「領巾振る嶺」(現在の鏡山)と呼ぶようになったそうです。

遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名
 山の名と 言ひ継げとかも 佐用姫が この山の上に 領巾振りけむ
 万代に 語り継げとし この岳に 領巾振らしけむ 松浦佐用姫
 海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫
 行く船を 振り留みかね いかばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫

古代日本では領巾振りや袖振りは呪的行為で、相手の魂を招き寄せる「魂乞い」の一方法です。現代では、手や袖を振る行為は愛情表現であったり、別れを惜しんだりする行為ですが、その根底には相手の魂を自分のところに引き留めておきたいという願望があります。松浦佐用姫の領巾振りと蝶々夫人の袖振りがオーバーラップして、哀しく胸に迫ってくるではありませんか。

「蝶々夫人」は長崎、松浦佐用姫伝説は肥前の松浦が舞台ですが、どちらも異国への玄関として開かれた場所です。小高い場所で船が出入りする港を眺め、愛する男性の旅立ちを見送ったり、帰還をひたすら待ち続けたりする女性の実話が古くからあったのでしょう。蝶々夫人は最後に自害して果てますが、佐用姫は待ち続けて石になったという伝説が伝わっています。いわゆる「望夫石」伝説の一つです。

もともと望夫石とは、中国の湖北省、武昌の北の山の上にある岩を指しました。昔、貞婦がいて、役に従って遠方に赴く夫を幼子を携えてこの山上で見送り、そのまま岩になったという話が南朝・宋の『幽明録』に載っています。『唐物語』(中国の説話を意訳した物語。鎌倉中期以前の成立。)には、夫に先立たれた妻が悲しみのあまり自らも命を失い、その屍が石になったという話もあります。

石になったというのは、女性の意志の堅さの象徴でしょう。芯が強く健気な蝶々夫人が松浦佐用姫の末裔のように思われてなりません。

(し)
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