短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(135) 江戸の珍談・奇談(16)

15.05.30

怪事があると必ずといっていいほど付会の説が行われる。例えば、平家蟹という鬼の顔を甲羅に刻んだ蟹がある。これを平家蟹と称するのは、源平合戦の折、讃岐八島において溺死した平家方の武士の冤魂が化したことによると伝えられている。

ところが、同種の蟹を所によっては島村蟹とも武文蟹とも呼ぶ。島村蟹は、細川武蔵入道高国が生害された時、その家人島村弾正左衛門貴範が主の後を追ったが、間に合わなかった。無念に思った島村は、向かう敵二人を摑んで引き寄せ、もろともに川底深く沈んでしまった。その霊が化して蟹となっているという。

また、摂津の国尼崎兵庫の浦にある蟹は、怒った顔をして兜を着している有様が甲羅に見える。これは秦武が文松浦五郎のために、海中に入って死んだその霊だという。

『三養雑記』の筆者山崎美成は、「すべて品物の形状、あるひは産所によりて、付会の説あること、和漢そのためしいと多かり」と冷静に受け止めている(『日本随筆大成』第2期6、122ページ)。

たまたま鬼面のような模様をした甲羅を持つ蟹を恐れて、人が獲ることをしない。すると、害する者がないのだから、そのまま子孫が生き残る。現代なら人為淘汰として片づけられることでも、何らか意味づけを行わないと気が済まないのが人間の性質だ。

近江の国志賀郡別保にある西念寺の寺境に住む人のない廃屋がある。たまたまここにいる人は、必ずその身に禍があるという。俗に常元屋敷と呼んでいた。その由来と言えば、蒲生家の侍である南蛇井源太左衛門という者が、天正の兵乱に無頼の徒となり、強盗をよすぎとして諸州に横行した。その徒輩は数百人にも及ぶ。南蛇井は、老いて別保へ帰っても、なお悪行をほしいままにしていたが、人の勧めによって出家剃髪し、常元と称した。慶長5年、諸国の盗賊を召し捕えた時、長年に亙って悪行をした罪人だからというので、常元も柿の木に縛り付けられる。人々の見懲らしとしてついに斬殺されたが、死に臨んで様々な悪口雑言を吐き、一層人々の憎しみを受けてしまう。梟首され、遺骸は村の庄屋が引き取り、柿の木の下に埋めた。数日後、墳の上に不思議な虫がぞろぞろと這い出る。その形は人を捕縛したようで、後に蝶に羽化して飛び去った。その殻が毎年木に残っている。人々はこれを常元虫と呼んだ。顔・目・口・鼻が備わり、手は後ろへ回し、縛られているようでもある。足は縮めたような恰好で、段々の襞(ひだ)がある。蝶に化する時は黒い糸を吐く。まるで柿の木に縛り付けられた常元のようだ。〈同、121ページ〉

この奇妙な虫を物産家(=博物学者)に問い質すと、「縊女(いじょ)」という虫で、俗には「おきく虫」というものだと教えられた。ここからが山崎の本領発揮で、常元が埋められた墳の上の樹にそんな虫が生じたのは偶然であるとし、「自ら罪業の報によりて、彼が名を虫にまで負せて、常元が悪事いひつたへて、話柄とするも因果のことわりおそるべし」と結んでいる。

因果応報に付会することが悪いというのではない。事の本質を巧妙に外して、中途半端な説明によって納得しようとするところが不満なのだ。

近世の江戸でも河童の噂は絶えなかったらしい。山崎は「江戸にては川水に浴する童などの、時として、かのかつぱにひかるることありし。などいふをきけどいと稀にて、そのかつぱといふものを、たしかに見たるものなし」と、ひとまず疑念を抱いているが、さらに、実際に耳にした話を次のように挙げている。

畠の茄子の一つ一つに歯型三四枚ずつ、残らず付いていたことがあると畠の主から聞いた。河童の執念は恐ろしく、筑紫の仇を江戸へ来ても果たされたようで、怪しいことが起きるとも聞いたことがある。また、越後の国蠣崎の辺りでのことだとか、ある夏のころ、農家の子供が家の中で遊んでいたところ、その友だちの子が来て、川辺へ出て水浴びをしようと誘う。一緒について行くと、その誘いに来た子の親がほどなく入って来た。家主が、「ちょっと前にそちらのお子さんが遊びに来たよ」と言ったので、「いや、息子は風邪を引いて今朝から家で寝ている。不思議なことだ」と言い合ったという。後で聞くと、河童が子供に化けて誘い出したらしいというのだ。さらに、上総の国でも、ある家の子供を、友だちが来て川辺で遊ぼうと呼び出しに来た。そこで、その母が「川辺に行くなら、仏壇に供えた飯をまじないに食って行け」と言い付けたところ、友だちは「そんならいやだ」と言いながら、走って逃げたという。〈同、122~123ページ〉

山崎は、上総の例を「これもかつぱにてやあらん」と一旦は認めながらも、「先祖まつりは厚くすべきことといへるとかや」と、俗習の背景に河童を結び付けて理解しようとした。それで、河童自体をどう考えているの、と突っ込みたくなるが、今でも解決されているとはいえないのだから、当時の知的水準として無理もないであろう。

(G)
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