短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(133) 江戸の珍談・奇談-(15)

15.04.30

前回の字謎の正解は、「一」という漢字である。なぞなぞの文言どおりに書いてみればすぐに知られよう。

話頭を転じて、かのヘレン・ケラーも私淑していたという盲目の大学者塙保己一(はなわほきいち)の畢生の大事業『群書類従』1273種530巻666冊が完成したのは、文政2年-1819-保己一74歳の時であった。編纂・刊行を決意してから実に41年後のことである。

さらに、保己一は『続群書類従』1885冊を編纂したものの、生前には世に出ることはなかった。保己一の死後100年余を経た1922年、国書刊行会を前身とする続群書類従完成会が設立され、『続群書類従』の出版事業がようやく始まる。続群書類従完成会が2006年9月に倒産した後、2007年6月からは八木書店に引き継がれ、現在も継続している。まさに、出版界のサグラダ・ファミリアだ。

保己一にまつわる逸話は数多い。自身が設立した和学講談所で『源氏物語』の講義をしている折、突然吹き込んだ涼風に蝋燭の火が消えたことがあった。辺りが暗くなったことを知らない保己一はそのまま講義を続ける。弟子たちがあわてて中断を申し入れたところ、保己一は「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったという。尋常小学読本にも採録されたこの有名な話はどなたもご存じだろう。

ここでは、山崎美成『三養雑記』中にある「塙検校小伝」から一話を紹介しよう。

保己一は延享3年-1746-5月5日の生まれである。当時、5月5日に生まれた子は親に祟ると言い伝えられていた。『史記』孟嘗君の故事である。この日に生まれた子は背丈が戸口の高さに等しく、父母に利あらずという。また、他書にも5月5日に生まれた男子は父を殺し、女子は母を害するという俗説が見られる。だが、保己一は盲人ながら家を興し、子孫が栄えたのだから、それが単なる迷信であることを証明したのだ、と山崎はある人の談を挙げている。
また、以下は、保己一がいかに博覧強記であったかを如実に示すもので、山崎が屋代輪池(弘賢)から親しく聞いた実話である。因みに、屋代は保己一から国学を学び、『群書類従』の編纂に携わるとともに、和学講談所の会頭をも勤めていた。

浅草に山岡明阿(みょうあ)の門人で、片山足水(たるみ)という人があった。足水はかつて宸翰の御願文を一葉蔵していたが、太上天皇とだけ署名があり、花押がない。それで、長年来どの御代の天皇なのか定めかねつつも、端正な書風だから模写して人にも配っていた。ある時、輪池翁の講席上のこと、例の宸翰を話題にしたところ、同席していた塙検校が、「どのような文体なのか」と問うた。そこで、輪池翁が座右にあった摸本を取り出して、初めから読み下していくと、「廷禁(ていきん)の闕(けつ)宸居(しんきょ)動くことなく、姑射(こや)の山万寿(ばんじゅ)騫(か)けず」という文に至って、検校ははたと手を打ち、「分った」と笑みを含む。「これは、花園帝の宸翰である。その理由は、花園院が上皇になられた時、伏見院がまだ仙洞御所にいらしたので、伏見院を姑射と称し、当今を廷禁の闕と記されたのだ」と、こともなげに解説したという。〈『日本随筆大成』第2期6「三養雑記」巻之三、115ページ〉

『源氏物語』講読中の逸話より地味で一般受けはしそうにない。だが、こちらの方がずっと真実味があり、こんなことが日常茶飯事だったのであろうと想像させる。保己一は7歳の時失明した。和尚や家族の話を一語一句誤りなく再現したほど抜群の記憶力を持っていたとはいえ、耳からの情報だけで万巻の書に目を曝したに等しい学識を備えるに至ったのだから驚嘆するほかない。

(G)
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