(128) 江戸の珍談・奇談(13)―4
15.01.30
比叡山飯室谷(いいむろだに)にある松禅院に、一人の老爺があった。坂本の生まれで、農夫の子であったが、父母に先立たれ、14歳の時以来この寺に住居し、今年96歳だという。実際会ってみると、背が高く、耳も目も衰えず、歯も欠けていない。大変たくましい偉丈夫である。他所へ出る時には、必ず握り飯を持参し、他所の物を食べない。通常2日かかる用事を1日で済ませてしまう。この寺では余人をもって代えがたい人物である。時に、院主に300貫(1貫が960文、江戸後期で30両に相当)の借財があったため、移転することができないでいた。すると、この老爺が笑いながら、働いて借財を解消してみせるから2年辛抱してくれと言う。院主は、老人の言葉だから、表面上は有難がって見せたが、内心は侮っていた。それから老爺は、不毛の地には物を植え、山林の下草を刈っては市場に売り、夜は縄を綯(な)って莚(むしろ)を織る。こうして昼夜別なく働くと、3年後、300貫の借財はきれいに清算され、院主を太秦へ移転させることができた。院主は移転に伴い、かの老爺の多大な貢献に謝するため、一緒に伴おうとしたが、この山に80年も住み慣れているから、他所へ行くつもりはないと老爺は頑として承知しない。仕方なく院主は多くの謝礼を贈ったにもかかわらず、それも謝絶して言うには、「院主様は物がなければ人を済度することはできません。だが、わしは財を持っていたって、人の教化もできない。不用の財はあっても益がないのです。身を終えるまで食料以外何を望みましょうぞ」と言って、さらに後任の院主にも篤実に仕えたという。〈「雲萍雑志」巻之四、『名家随筆集 下』210~211ページ〉
まさに地に足の着いた生き方だ。院主の借財がどこから来たかには全く関心がない。原因はどうあれ、その解決に邁進する。さらに、その働きに対して何らの報酬も受けない。受けてしまえば自分の生き方や哲学を自ら否定することになるからだ。
昔、和泉国に豪商がいた。囲碁を好んだため、その道で世を渡る者が諸所から出入りする。中に近江国で諸侯に仕えていた某は、人の讒言によって身を退くと、国を去って堺で手習いの師匠をしながら口に糊していた。折ごとに豪商の家へ来ては囲碁の相手をしていたが、ある時、その家の手代が金50両を紙に包み、得意先から利金として得たものだと言って、碁を囲んでいる主人に渡した。ところが、主人は、「そこへ置け。あとで確かめる」と生返事をするだけで、碁に熱中している。碁敵が帰った後、再び手代が金のことを申し出ると、主人は受け取った覚えはないと言う。手代は確かに渡したと言って争いになる。金はどこにあるかわからない。手代が持って来たところまでは覚えがあるが、手に取っていないからいよいよ不審である。「あの時にやって来た者はない。居合わせたのは手習いの師匠猪飼(いかい)某だけだ。あの人は金に目が眩むような人ではないが、人間は貧困に陥ればふと過ちを犯すこともあるかもしれない」と言うと、手代も同意し、それとなく某に聞いてみることとなった。主人と碁を打った時に傍らに置いた金が紛失したこと、ひょっとして取り違えでもして、持ち帰られたのではないか、と用心深く尋ねる。すると、某はうなだれて、「流浪の身の悲しさ、大金に目が眩んで、人知れず持ち帰った。申し訳ないが、表沙汰にはしないでくれ。夜が明けたらその金を調えて返すつもりだ。今しばらく待ってほしい」と言うので、帰参した手代がその旨報ずると、やはりそうだったかと主人も一驚する。それから10日後、金50両を持参して詫びに来た某は、帰宅すると一人娘を連れていずこともなく失踪した。豪商宅では、人は見かけによらないものだと爪はじきをして某を謗っている。そして、その年の暮れ、煤払いをしていると、座敷の長押(なげし)から反古に包んだ金50両が落ちて来た。改め見るに、手習いの師匠を疑った時の金に間違いなかったから、皆顔を見合わせて訝しがる。だが、師匠の行方は知れない。是非なくそのままで年月が過ぎて行く。5年経た頃、尾張から来た商人が堺の問屋の店先で猪飼某の行方を尋ねる。金を盗んで逐電した由を問屋が伝えると、その商人は、「その金は某が盗んだのではない。私はその師匠の娘に会って詳しく事情を聞いた」と言う。さらに、京の島原へ行った時、江口という太夫を呼んだが、それが某の娘で、豪商へ返す金のために身売りをしたのだと語った。傍らで聞いていた豪商の手代が主人に報告すると、喜んだ主人は、京へ出向き、江口を身受けするとともに、師匠に丁重な詫びをいれるよう手代に命じる。娘から父は郡村という所で小作をしながら生計を立てていると聞いた手代が某の許を訪れる。鋤を携えて野に立っている某に主人から託された詫びを述べ、あの時どうして盗んだのではないと言わなかったのか、と問う。猪飼が言うには、「人の疑心は言葉で解くことはできない。自分が疑いを受けた上は、どんなことを言っても許されないのが人情というものだ。その時の疑心は後に晴れるに違いなかろう。だが、当面の心持はどうすることもできない。だから、娘を売って調達したのだ。士は不義の物を受けず。況や金銭に於いてをや。その方、私に会ったなどと言ってくれるな。早く立ち去るがいい」と言い遺し、再び畑に向かう。あれこれと詫びの言葉を尽くして金を返そうとするが、某は一切受け付けない。京へ戻り、人を介してさらに詫びを入れたものの、「娘の身受けも、豪商らのような卑しい志の輩には許しがたい」として聞き入れなかった。返された金には一指も触れず、生涯この村に老いを養って終わったという。〈同巻之二、130~134ページ〉
「士は不義の物を受けず」とは心地よい。手習いの師匠となる前の猪飼某が私心なく廉潔な志をもって諸侯に仕えていたことがこれで知られる。不義の金を懐にしていながら、次の選挙で直ちに当選してしまうような輩に猪飼の爪の垢でも煎じて呑ませてやりたいものだ。