短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(127) 江戸の珍談・奇談(13)―3

15.01.13

淇園の交際していた人の子に兄弟が常に争う者があった。兄は砂糖を商い、衣食に奢って懈怠したため、儲けもなく貧しかったが、弟は塩を商い、粗衣粗食に甘んじながら勤勉であったため、家が富み栄え、何不自由なかった。弟の富裕を頼み、その兄が常に金の無心をする。だが、倹約などどこ吹く風、すぐに費消してしまい、弟に借財を乞うが、とうとう弟も承知しなくなった。そこで、兄が淇園を訪れ、「貧しい兄を助けてくれないなんて、赤の他人にも劣る奴だ。もう商人はやめて武士になりたい」と言う。そんな卑しい根性で武士になったら、どんな危難に遭うか知れたものでないと考え、淇園は工夫をめぐらす。「弟の支援が欲しいのなら、私に秘密の芸がある。能の狂言のようなものだ。教えに従う気があるなら、一家を立てられるにちがいない。もし稽古に怠ったら、身を亡ぼすことになろう。師弟の約を契って、この芸を習ってみないか」と持ちかけると、兄は承知し、そのまま師弟となった。翌日約束通りやって来たため、温袍を取り出して兄の着ていた小袖と着替えさせた。「装束が身に慣れるまでその姿で過ごすように。板に付いたら授ける芸がある」と言って、布衣(ふい)の姿に整える。ところが、月日が過ぎても、衣類がまだ身に付いていないと言って、芸を授けない。一年過ぎたころ、兄が粗衣のまま過ごしているのを弟が喜んで、これで家を保つことができると賞美し、淇園のもとにその旨を報じる。そこで兄に「質素な生活をし、しばらく贅沢を止めていれば、求めなくとも財はやって来るものだ。出精せよ」と戒めた。兄を憐れんだ弟が多くの財を贈ってやると、ますます固く倹約したから、家を再興することが出来、弟にも劣らぬ富裕者となった。〈『名家随筆集 下』、152~154ページ〉

人を更生へと導くのに、その人の持つ力を内発的に発揮させられるというのは、優れた教育者の資質を備えているといってよい。淇園の用いた方法は見事なものだ。

淇園が江戸にいたころ、親しく交わる友があった。雞黍(けいしょ)の約を結ぼうと求めて来たので、承諾してから、その志が本物かどうか見ようと思い、ある時、食客を養うことを口実に25両の借財を申し込んだ。その人は快く引き受け、自ら持参した。さらに年末に至って、手許不如意につき25両貸してくれと頼むと、何も言わずに貸してくれた。そのまま3年過ぎたが、金のことは一言も言わず、以前と変わりなく親しく交わっている。その人は、病気となって多額の金が必要となった時にも、少しも顔色に出さない。妻が50両の金を借りておきながら7年も返さないとは、騙すつもりなのだとなじっても、その人は「あの人に人を欺く心はない。乏しいから返せないのだ。刎頸の交情は婦女子の知ったことか。二度とそんなことを言ったら離縁する」と憤ったので、その後妻も口に出さなくなった。このことを聞いて、ないものはないのだから、返すことのできないことを悔いていると人づてにその人の耳に入れる。しかし、その人は「人が不実をなしたからといって、絶交するのは知己親友とは言えない。欺くのも不実もその時の是非なき次第である。世の中に初めから虚偽を構えて人に交わろうという者はない。その偽ることと欺くこととを許さなかったら、知己親友と言えないではないか」と淇園の言葉に応じた。それを聞いて直ちに、借りたまま封を解かずにおいた金をその人に返し、「私は君の心を試したのだ」と言って、ますます厚く交わるようになった。〈同、201~201ページ〉

管鮑貧時の交わりを地で行くような話だ。現代では、金がからめば、親友といえどもなかなかこうはいくまい。それにしても、金によって人心を試そうというのだから、人が悪い。淇園は食えない男である。先程優れた教育者と評したが、こちらの評価と両立するだろうか。

(G)
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