(126) 江戸の珍談・奇談(13)―2
14.12.29
『雲萍雑志』の冒頭、序に次ぐ「柳沢淇園伝」によれば、淇園は「文学武術を始めて、人の師たるに足る芸十六に及ぶ」という。中でも絵に長じ、殊に人物の彩色に優れ、水に浸し力を込めてもみ洗いをしても落ちないと賞された。
それほどであるから、絵に関して人から問われることもある。「絵に魂を入れるということは、どんな方法で描けばよいのですか」と問われたことがあった。これに対して淇園は次のように答えている。
すべて絵に限らず何事においても誠心を込めて行えば、魂が入らないということはない。絵に魂が入ったという例としては、諸国に名画の多い中で、泉州堺にある一国寺の絵が挙げられよう。この寺は利休もしばらく滞在し、数寄を凝らして庭園座敷五間ほどを造った。一間には檜一本を描き、一間には臥した鶴25羽ばかり描いてある。いずれも彩色され、狩野元信の筆と伝えられる。昔、この絵を描いた画師が寺に寓居すること3年、何一つ描かず毎日碁を打ってばかりいた。ある時住持が言う。「そなたは画師として一家をなすといいながら、筆を取ったこともなく、囲碁にばかり日を送っているではないか。衣食の費用を惜しむというのではないが、私も所用があって京へ上り、事によっては一年以上在京しなければならぬかもしれん」かの画師これを聞いて、「それは名残惜しいことです。それなら年来の感謝のしるしとして何か絵を残しましょう」と言ったが、筆を取らぬまま4・5日が過ぎてしまう。ある夜、画師の部屋を覗いた小坊主が住持に何事か告げに来る。小坊主の後について画師の居室を窺うと、明かり障子の腰板に身を寄せて様々な姿態を演じている。翌朝早く起き出した画師が一間に描いた物は、みな臥した鶴であった。筆の勢いは凡庸でなく、丹青の妙は筆舌に尽くしがたい。次の夜はどうかと覗き見ると、こうしようか、ああしようかと、独り言を終夜呟いている。10日余りで、その鶴が34・5羽に及んだ。また夜が更けて窺うと、今度は肘を張り、脚を伸ばし、手を口に当てて臥す鶴の姿を見た。翌朝画師のもとへ至り、今日描こうという鶴はこうでしょうと言って、昨晩見た画師の姿を真似て見せる。今日描こうとする意匠を言い当てられてぎょっとする画師にこっそり覗いた由を告げると、画師はそれ以上鶴を描かず、檜一樹の絵を残して立ち去った。ところが、この檜を描いた後、東海道箱根の山中で、意に適った木の枝が見つかったため、東国へ下らないまま引き返し、再び一国寺へ戻った。画師の姿を見て驚いた住持に、先に描いた檜の枝に一枝足らぬ所があったが、箱根で恰好の枝を見つけたから、わざわざ立ち戻ったと言いつつ、画師は一枝書き添えて立去ったという。絵に魂を入れるとはこういうことだ。〈有朋堂文庫『名家随筆集 下』197~199ページ〉
絵師が鶴の姿態を真似し、覗かれて立ち去るという取り合せが、鶴の恩返しのようで面白い。しかも、箱根から堺まで戻って檜の枝を書き添えたというのだから、まさに入魂の芸術だ。この手の伝説には逆転が必要で、必ずといっていいほど始めに怠惰な芸術家が登場する。周囲からばかにされ、そろそろ危機に陥るといったところで、優れた絵などを残して飄然と立ち去る。これで爽やかさとともに痛快な印象を残すことになる。
ところで、文中の一国寺は現在大安寺と称する。また、画師は元信でなく、その孫である永徳だと伝えられる。透き見をされて描かずに去ったという伝説も、実際には全部描いたらしい。絵に適う檜の枝を見出したのも箱根ではなく、木曾の山中だと一般に伝わっているが、事実は寺の正面にある松の木だという。桶狭間の今川義元の墓に差しかかっていた松を永徳が心覚えに描いたもので、書き上げてから後に桶狭間へ行ってみると、根方の小枝が一本足らないため、戻って来て書き加えたと伝えている由。これは五十嵐力『甲鳥園(かもぞの)随筆』〈大正13年4月、銀鈴社〉によって知った。五十嵐が当地を訪れ、大安寺住職の奥さんから直接聞いた話である。
この随筆には、同じ寺の本堂にある刀疵の付いた柱にまつわる逸話があるから追加しておこう。
寺の普請が出来上がった時、普請があまりに備わって何一つ欠点のないのを見て、名茶器平蜘蛛とともに爆死したと伝えられるかの松永弾正久秀が、十全は却って不吉だから、まじないに少し疵を付けようと言って、一太刀見舞ったのだという。「すべてなにもみな、ことのととのほりたるは、あしきことなり」〈『徒然草』第82段〉と兼好法師も言っている。