(123) 江戸の珍談・奇談(12)-2
14.10.22
すでに紹介した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)『耳嚢(みみぶくろ)』には、動物の奇談が多く拾われている。予想通り狐狸の話が突出して多い中で、猫を主人公とした話が9話ほど取り上げられている。そのほとんどが怪異譚であり、狐狸に等しい存在感を示すところが面白い。
例えば、年老いた猫が老母を食い殺し、その老母に化けていた話がある(巻之二)。
ある時猫の正体を現したため、妖怪に相違なしと息子が切り殺してしまう。すると、猫が母の姿に変わった。親を殺した大罪ゆえに息子は切腹しようとする。周囲が、猫や狐が化けた場合、命を落としてもしばらくは形を現さないものだ、待つがよい、と軽挙を諫めたその夜になって、しだいに古猫の死骸と変わったという。
この話では、息子が切腹せずに済んだが、別の話では母に化けた猫を切り殺したものの、母の姿のままであったため、自殺を余儀なくされている(同上)。
猫は、狐と同様人に取り憑くばかりではない。人語も解するし、物も言う。
石川某の親族の者に長年飼っていた猫がある。ある時、その猫について来客に「この猫は襖(ふすま)を自分で開けて出ると、その後立ち上がってまた閉めて行く。このままだと何かに化けるかもしれん」と言う主人の顔を猫がじっと見てその場を去ったが、そのまま行方知れずとなってしまった。〈巻之七〉
「亭主の言葉的中故なるべしと語りぬ」と根岸は結ぶ。主人が自分を怖れる何気ない呟きが図星を指したため、猫が行方をくらましたというのである。
ある武家ではいくら鼠が増えても猫を飼わない。その理由は、祖父の代に飼った妖猫のせいであった。ある時、縁側の端にいた2・3羽の雀をかの猫が狙って飛びかかったものの、雀は飛び去ってしまう。その時、猫が小児のような声で「残念也」と呟いた。それを聞きつけた主人が取り押さえ、火箸を持って「貴様、畜類の身として物を言うとは怪しい」と怒って殺そうとした。すると、猫が再び声を発し、「物を言ったことはないのに」と言ったため、驚いた主人が手を弛めた隙に飛び出して行方知れずになったという。それ以降その家では猫は飼ってはならないと堅く戒めている由。〈巻之六〉
人語を発する猫の話はもう一つある。
寛政七年-1795-の春、牛込山伏町の某寺院に秘蔵して飼っていた猫が、庭に下り、鳩を狙う様子を見せたため、和尚が声を出して鳩を逃がしたところ、その猫が「残念也」と言葉を発した。驚いた和尚が逃げる猫を取り押さえ、小刀を持って「畜生のくせに物を言うとは奇怪至極。人間をたぶらかすかもしれん。人語を解するなら、そう有り体に申せ。もし拒否したら、殺生戒を破ってでも貴様を殺すぞ」と憤ったところ、かの猫は「どの猫でも十年余生きていれば物は申すものです。それから4・5年過ぎれば神変を得ますが、そこまで命を保つ猫はありません」と言うものだから、「それは分った。だが、貴様はまだ十年に至っていないではないか」と問い返す。すると猫は、狐と交わって生まれた猫は、その年功なくとも物を言うのだ、と答えた。そこで、「猫が人語を発する現場に接したのは自分一人である。今まで飼ってきたのだから、物を言おうと別に支障はない。これまで通りにいるがいい」と言って解放してやると、猫は三拝をなして立ち去ったが、その後の行方は杳として知れないと近所に住む人が語った由。〈巻之四〉
後者の猫の方は、和尚に対する応答が論理的で組織立っている上、礼儀正しく振舞ってもいる。恐らく、素朴な前者の話に基づいて脚色したものであろう。
狐なら人間に化けて人語を操ることくらい何でもないのだが、猫にも共通した属性のあることをこれらの風説は示してくれる。ただ、狐の狡猾さに比して猫には直線的な趣があるようだ。上記某寺院に飼った猫にしても、主人をたぶらかしたり、はぐらかしたりすることは決してない。だが、狐の場合はさらに上手を行き、単なる応答にも一捻りが加わるのである。
故事を話して人間のためになることなどを説いてくれた老狐に向かって、ある人が「畜類でありながら、これほど理に敏く、吉凶や危福をあらかじめ悟って人にも告げるほどの術があるのだから、名獣といっても過言でない。なのに、どうして人をたぶらかし欺くような真似をするのか、合点がいかない」と言ったところ、老狐が「そんな悪行は、全ての狐がするのではない。悪さをするのは、多くの人間の中にも不届き者がいるのと同じことだ」と答えて笑っていたという。〈巻之四〉
狐ながら世故にたけた名言といってよかろう。