(115) 江戸の珍談・奇談(8)-2
14.07.14
姫路藩15万石の領主榊原式部大輔政岑(まさみね)は、新吉原町の遊女薄雲(一般には高尾とされ、その記録の方が多い。しかし、今、『続燕石十種』第1巻所収「過眼録」に従っておく)を身請けし、側室とした唯一の大名である。
もともと一族の旗本榊原勝治の二男として生まれたが、本家7代当主政祐に男子がなかったため、従兄弟に当る政岑が養子として入り、享保17年(1732)19歳で本家を相続したのである。
本家の榊原は名家として名高い。初代康政は、家康に仕え、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどを歴戦して勲功を上げたため、家康の幕府創業期の大功臣である本多忠勝・井伊直政・酒井忠次とともに徳川四天王と呼ばれた。
3代忠次の時、姫路藩へ転封されて以来、一時他藩へ移る時期があったものの、7代政祐まで名君に恵まれ、領内もよく治まっていたという。ところが、政岑に至ってとんでもない事態が出来する。
政岑は吉原で放蕩を繰り返した挙句、寛保元年(1741)、大夫(たゆう―最高位の遊女、前述の薄雲あるいは高尾)を2千5百両かけて落籍すると、参勤交代にも同伴したばかりか、姫路城の西の丸に住まわせた。要するに正妻扱いをしたのである。
質素倹約・華美厳禁を掲げる吉宗将軍の代だったから、幕府も黙ってはいられない。家臣もこんな殿様を頭に戴いたら大変だ。以下、「過眼録」に従ってその顚末を記そう。
政岑の大夫落籍を耳にした公儀から事情聴取を受けることとなった。家老尾崎富右衛門が老中の評定席へ呼び出され、事実認否が質される。諸侯の身分として遊女を請け出すとは放埓至極、申し開きできるか、と問い詰められ、尾崎はこう抗弁する。実は、調査したところ、遊女薄雲は式部大輔の乳母の娘であり、殿と乳兄弟である旨を世間に吹聴するおそれがある。それではお家の疵ともなりかねないから、身請けをし、引き取って世話をしているのである。決して放埓などと非難される謂われはない、と陳弁した。老中は事実に間違いないと思っていたが、尾崎の器量に感じ、一応その弁解を聞き届けた。しかし、そのまま捨て置けるはずもない。結局、政岑は隠居、さらに越後高田への御国替え(=転封)という処分が下った。〈『続燕石十種』第1巻、182ページ〉
本来なら改易(=取り潰し)のところ、幕府は先祖康政の功績に免じて転封で済ませたのであった。この時まだ29歳であった政岑は、越後へ移って2年後に病死している。あるいは、これ以上散財されてはたまらないという家臣によって始末されたのかとも疑われる。変死を病死と公表した例は枚挙にいとまがないからだ。
姫路15万石は実収20万7千石以上だったのに、高田は15万2千石、しかも頸城郡に6万石と陸奥国内に9万石という風に分割されていた。殿様の放蕩三昧の結果30万両の借金を抱えていた藩財政は、転封によっていよいよ窮迫し、火の車どころの話ではなかったという。