(110) 江戸の珍談・奇談(7)-1
14.05.16
刑務所が地震や火災などの災害に見舞われた場合、収監されている囚人はどうなるか。現在では「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」によって、避難できる適当な場所へ護送できない時は刑務所から「解放することができる」(第83条第2項)とされている。併せて、解放されたまま囚人が逃亡してはいけないから、「避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、刑事施設又は刑事施設の長が指定した場所に出頭しなければならない」(同条第3項)と規定されていることは言うまでもない。
この法律の背景は、もとを糺(ただ)せば江戸時代に実際に起きた事件がその淵源となっている。
享保3年(1718)、大岡越前を含む時の町奉行3名(当時は北町・南町の他、中町に奉行を置いていた)が老中水野和泉守忠之へ差し出した書面に、明暦3年(1657)1月18日に発生した大火の際、牢屋預り(=牢屋敷の番を務める役人)であった石出帯刀(いしでたてわき)が以下のような行動に出たと報告している(適宜送り仮名等を付す)。
帯刀、大勢の囚人焼き殺し候ふ儀、不便(ふびん)に存じ、牢の手前打ち破り、囚人ども差し出だし、其の方ども存じの通り、鎰(かぎ)の儀は御番所にこれあり候へば、焼き殺し候ふ外これなく候へども、我ら一命に掛け追ひ払ひ候ふ間、随分欠落も仕らず、浅草新寺町善慶寺に参り候ふ儀に申し付け、百二十人余の囚人、翌十九日まで残らず参り申し候ふ。〈三田村鳶魚『江戸の珍物』156ページの引用文による〉
猛火により牢屋敷も類焼を免れなくなったため、石出帯刀が牢屋の格子を破壊して囚人を逃がしてやった。百二十人を超える囚人らは翌日一人残らず指定の場所へ集合したというのである。
自らの身命を賭して牢払いを行った石出の専断に対して、幕府は咎めるどころか、その臨機応変の判断を十分に評価した上、以後の火災にはこれを先例とするに至り、現在までそれが続いているのである。なお、戻って来た囚人らは特赦され、これも先例となった。
「鎰は御番所にこれあり候へば」とある通り、牢屋預りは牢の鍵を管理する立場にない。鍵はすべて町奉行の許にある。従って、囚人が牢舎を出入りする場合には、その都度奉行の許可を得て遣わされた同心によって開閉されなければならなかった。だから、緊急事態に際して鍵のお伺いを立てている暇はない。格子を破壊するしか方法はなかったのである。因みに、時代劇などで見る牢屋の四面格子の構えは、石出自身の考案によるものであった(三田村同書159ページ)。太陽光の取り入れや換気などに配慮し、しかも監視しやすい設計としてよく知られている。
恐らく石出は、囚人を逃がした時点で、切腹を覚悟していたろう。牢屋預りとは、幕府の役人とはいえ、牢屋の番人でしかない。三田村の引く『武鑑』(=大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などの情報を記した一種の紳士録)には「石出帯刀、三百俵、小伝馬町、同心五十人」とあり、江戸役人の一番末に出て来る由(同書157ページ)。町奉行に属する吏員で、不浄役人とさえ言われていた。死罪人の処刑を執り行なっていたからである。そんな下級役人が独断で囚人の解放など出来るわけがない。
しかも、収監されている者は未決囚である。江戸時代には懲役や禁錮という刑罰はない。つまり、囚徒とはいえ、服役囚ではなく、死罪・遠島等の処刑・処罰を待つ身である。それを逃がさないようにするのが役目であるから、そんな者どもを、一時的にせよ逃がすことなどおよそ考えられない。これ幸いと戻って来るはずがないからだ。
ところが、一人残らず善慶寺へ集ったと上記書面では伝えている。いや、実際には戻らなかった者もあったのではないか。浅井了以『むさしあぶみ』は、明暦の大火の取材記録といった趣を持つ仮名草子であるが、この石出帯刀の果断な行動も書き留めてくれている。浅井は、この事件の顚末を記し終えた後で、遠慮がちに以下のように加えた。
其中に一人の囚人(めしうと)、しかもいたりて科(とが)の重かりしが、よき事におもひて遠く逃げのび、我が古郷(ふるさと)にかへりしを、在所の人々、此ものはたすかるまじき科人なるに、のがれてかへりしこそあやしけれとて、つれて江戸へまいりければ、奉行がた大きににくませ給ひて、ころされしとなり。〈万治4年(1661)年刊、国立国会図書館本、16丁表〉
三田村は、さらに『天和笑委集』(貞享年間-1684~88-に成立した、大火の見聞録)からも同趣の話を拾っている(同書156ページ)。遠く遁れた二人の囚人のうち、一人は帰ろうと言って江戸に戻り恩赦を得たものの、今一人は帰れば殺されると言って、逃げられるだけ逃げようと、故郷へ帰ったところが、土地の者に怪しまれ、江戸へ連行されて死罪に処せられたという。ここまで来ると、いかにも粉飾した跡がありありと見える。多分、浅井の方が真実に近いのであろう。