(103) 閨怨詩
14.03.05
王昌齢(盛唐の詩人)に「閨怨」(夫の帰りを待つ妻の嘆きの意)という漢詩があります。
閨中(けいちゅう)の少婦愁いを知らず
春日妝(よそお)いを凝(こ)らして翠楼(すいろう)に上る
忽(たちま)ち見る陌頭(はくとう)楊楊(ようりゅう)の色
悔ゆらくは夫壻(ふせい)をして封候(ほうこう)を覓(もと)めしめしを
王昌齢は、若妻の立場になって夫を戦場に送り出してしまったことを悔いる詩を詠んでいます。ある春の日、何の愁いもなかった若妻は美しくお化粧をして、楼に上ります。楼からは、大通りのほとりの柳が芽吹いているのが見えました。去年の今頃、「戦功をあげて大名になってね」と夫を送り出したことが悔やまれてならないと詠っています。生命が芽吹く春に、愛する夫がいない――何とも傷ましいですね。
閨怨詩では、妻を残して夫が戦場に出かける姿が多く詠まれます。夫が赴くのは国境の辺り、つまり辺境の地です。
閨怨詩は、平安貴族にも非常に好まれました。『文華秀麗集』中巻・艶情に、嵯峨天皇の「春閨怨」に唱和した詩「奉和春閨怨」が3首(作:菅原清公・朝野鹿取・巨勢識人)も並んでいます。菅原清公の「奉和春閨怨」には、「願はくは 君学ぶこと莫(なか)れ班定遠(はんていえん) 慊々にして徒(いたず)らに老ゆ白雲の端」とあり、長らく西域に滞在した班超の真似をして、いたずらにおじいさんにならないでと、夫の帰国を願う妻の気持ちが詠みこまれています。
この詩には「桑乾(そうかん、河の名)を憶(おも)ふ」とあるので、夫は中国の北方地方に出征したことになっています。唐の玄宗の頃、北方の異民族突厥(とっけつ)との戦争が桑乾の源で行われました。平安時代の人々は、中国の北方地方など行ったことがないのに、まだ見ぬ辺境の地に想いを馳せ、閨怨詩を真似て、女の立場で漢詩を詠んだのです。
清公の「願はくは 君学ぶこと莫れ班定遠 慊々にして徒らに老ゆ白雲の端」は、ちょうど湾岸戦争(1991年1月~)のさなか、恩師の最終講義で詠みました。鉛色の空と一面の雪景色で、とても寒い日だったことを覚えています。戦場に夫を送り出す妻の嘆きは、生涯忘れることのできない響きとなって、今でも時々口をついて出てきます。
閨怨詩は愛の詩ですが、反戦の詩のようにも思われます。