(99) 紛るべき方なくその人の手なりけり
14.01.27
『源氏物語』胡蝶巻では、夕顔の遺児・玉鬘(22歳。父は昔の頭中将)を自分の子として六条院に住まわせている光源氏(36歳)が、彼女宛てに寄せられる多くの懸想文(恋文)を見て、期待通りになったと喜んでいます。多くの求婚者たちの中には、玉鬘が異母姉とも知らないで熱心に懸想文を贈って寄こす若君達・柏木(父は昔の頭中将で、母は四の君)もいました。
柏木の懸想文は、香を焚きしめた舶来品の薄藍色の紙に書かれ、それはそれは見事なものでした。
唐の縹の紙の、いとなつかしうしみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあり。…手いとをかしうて、
思ふとも 君は知らじな わきかへり 岩漏る水に 色し見えねば
書きざまいまめかしうそぼれたり。[新編日本古典文学全集③177頁]
玉鬘の親代わりである光源氏は、勝手に中を開けて読みます。他のどれよりも柏木の手紙が気になったのか、光源氏は誰からの手紙であるか、右近(夕顔の乳母の娘)に尋ね、柏木の手紙であることを知りました。
源氏は柏木をいじらしく思い、まだ若いが「『見どころある文書きかな』など、とみにも置きたまはず」、その見事な書きぶりに、手紙をすぐには下に置こうともなさらなかったとあります。
光源氏は「いつか自然に姉弟とわかることもあろう」と言い、柏木をひどくからかうつもりはないことが分かります。しかし、一方で、玉鬘が他人の妻になるのはとても残念だと思い、時々父親らしからぬ意味ありげな態度をとったり、群がってくる求婚者を見て楽しんだり批評するあたり、いただけません。
さて、この柏木の素晴らしい筆跡が、11年後、柏木と光源氏の若妻・女三の宮との不義密通の場面で皮肉な結果をもたらすことになります。
光源氏47歳の時、女三の宮が懐妊しました。長年連れ添った女性たちとの間でさえ、久しく子どもが生まれなかったのにと、光源氏は不信に思いますが、体調不良の女三の宮を見舞います。突然やってきた光源氏に驚いた女三の宮は、柏木からの恋文を慌てて「御褥(しとね)の下」に隠したのでした。手紙はそのまま忘れられ、翌朝、光源氏によって発見されます。
皆さんもありませんか?家族に見られたくない物を自分の部屋に隠しておいたのに、いつの間にか発見されて勝手に使用されたり、日記を読まれたりしたことが…。女三の宮の場合は、不義密通の証拠となる柏木からの恋文ですから、とても深刻な事態です。光源氏が手紙を見つけた場面を原文で見てみましょう。
浅緑の薄様(うすやう)なる文(ふみ)の押しまきたる端(はし)見ゆるを、[光源氏が]何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを[光源氏が]見たまふに、紛るべき方なくその人(=柏木)の手なりけりと見たまひつ。[新編日本古典文学全集④250頁]
光源氏は、女三の宮のお腹の子が柏木との子であることを悟ります。一方、光源氏が柏木からの手紙を手にしているのを目にした小侍従(女三の宮に仕える女房)は、「いといみじく胸つぶつぶとなる心地す」、まったくもって胸がどきどきと高鳴るような心地がしたとあります。女三の宮も、事が露見したことが分かると、ただただ泣くばかりでした(「涙のただ出で来に出で来れば」、「ただ泣きにのみぞ泣きたまふ」)。
現代ならさしずめ夫が妻の携帯を見て、自分より若い男性との不倫メールを発見してしまうといった感じでしょうか。
筆跡は美しい字であれ、汚い字であれ、指紋と同じように、その人を特定できるものです。前途有望な貴公子・柏木の字は素晴らしく、折に触れ、宮中や貴族の間で絶賛されてきたことでしょう。見覚えのある美しい筆跡で、自分の妻への恋情が切々と綴られているのを目の当たりにした光源氏の驚きはいかばかりであったか。かつて、柏木の玉鬘への恋文を見てひとり楽しんだ光源氏は、手痛いしっぺ返しを受けたのです。