短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(84) 三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(3)

13.08.25

牡丹の花をあしらった燈籠を手に、夜な夜な幽霊が訪れるという趣向は、中国の怪異小説『牡丹燈記』(明代、瞿佑(くゆう)による怪異小説集『剪燈新話』に所収)に基づくと一般にいわれている。だが、人物関係の複雑性やプロットの巧みさ、創意、いずれをとっても、原話とはかけ離れてすぐれているといってよい。

奥野信太郎によれば、原話に現れる事柄をそのまま『牡丹燈籠』に採用した個所は僅少だという(岩波文庫の解説)。例えば、題名「牡丹燈籠」は原話「牡丹燈記」の持つ中国的感覚を日本風に和らげたものである。白翁堂勇齋という人物も原話に繋がるが、原話では単なる隣の老人となっている。その白翁堂が伴蔵に向かって言う「人は生きてゐる内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにして邪に穢れるものだ、それゆゑ幽霊と共に偕老同穴の契りを結べば、仮令百歳の長寿を保つ命も其のために精血を減らし、必ず死ぬものだ。」(文庫、50ページ)という一条は、原話中の隣の老人が語ったものをほとんどそのまま意訳したものだとする。さらに、新三郎がお札を貼って幽霊の侵入を防ぐところも、原話では符籙(ふろく―道教で用いる護符)を懸けて亡霊を避けることに由来する。具体的な事実としてはこの程度しか挙げられないというのである。

それほど独立した作品に仕上がっているため、小島政二郎『円朝 上・下』(昭和34年、新潮社)が次のように断じている気持ちがよく分る。

円朝の「牡丹灯籠」は、浅井了意の「お伽婢子(とぎぼうこ)」の中に収められている同名の作品の骨を換え胎(たい)を奪ったものと世間一般では思っている。これは大変な思い違いで、私に言わせれば、円朝は単に題名を借りたのに過ぎない、いやもう一つ、牡丹灯籠を手にして幽霊が恋人のもとを訪れるくだりを借りている。それだけだ。(『円朝 上』242ページ)

小島の挙げた浅井了意『伽婢子』(寛文6年―1666―刊)は、まさに『剪燈新話』を翻案した怪異小説集である。

奥野は白翁堂の言葉をもって原話を参考にしたと主張するが、同様の言辞は『伽婢子』にもある。

をよそ人として命生きたる間は、陽分いたりて盛(さかり)に清く、死して幽霊となれば、陰気はげしくよこしまにけがるる也。此故に死すれば忌ふかし。今汝は幽陰気の霊(りやう)とおなじく座してこれをしらず。穢れてよこしまなる妖魅(ばけもの)とともに寝て悟らず。たちまちに真精の元気を耗(へら)し尽して、性分を奪はれ、わざはひ来り、病(やまひ)出侍らば、薬石鍼灸(しんきゅう)のをよぶ所にあらず。……(岩波新大系『伽婢子』巻之三、82ページ)

また、萩原新三郎の名は『伽婢子』に登場する荻原新之丞から得たに違いない。良石和尚は「東寺の卿公(きょうのきみ)」をモデルとしている。しかも、その卿公が荻原に死期の近いことを告げる言葉の中に「精血」という語が見える。原典「牡丹燈記」には見えない。浅井の造語らしいこんな語を圓朝はそのまま用いている。このように、確かに『伽婢子』を下敷きにしたことは明らかで、決して小島の言うような「それだけ」ではない。しかしながら、「あとは全部円朝の創作だと言っていい」と小島が言い切るほど創作の手が入った物語であることは間違いないだろう。

(G)
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