短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(79) 故郷の山と川

13.06.30

うつせみは 数なき身なり 山川の 清(さや)けき見つつ 道を尋ねな(『万葉集』4468番歌)

万葉の歌人・大伴家持(718~785)が詠んだ歌です。病床にあった家持が、無常を悲しみ、仏道修行を望んで作った歌ですが、「山や川の清らかなのを見ながら仏の道を尋ねよう」とあります。不思議なことですが、山や川と聞くと、故郷の山や川が思い起こされます。

家持にとって「故郷」と呼べる場所は、奈良の「佐保」です。家持の祖父・安麻呂が平城京遷都後に佐保に居を構え、安麻呂・旅人・家持と三代にわたって住んだそうです。

家持は、妾の死を悼み、「佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日はなし」(473番歌)、「昔こそ 外(よそ)にも見しか 我妹子(わぎもこ)が奥(おく)つ城(き)と思へば愛(は)しき佐保山」(474番歌)と詠んでいます。これまで気にもとめなかった佐保山も、妻が眠っている所と思うと慕わしく愛しく思われる、というのです。

弟の書持が亡くなった時、家持は越中(富山県)にいましたが、「…はしきよし 汝弟の命… 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に立ち棚引くと 吾に告げつる」という長歌(3957番歌)を詠んでいます。佐保山で火葬にされた書持が、山の梢に白雲となってたなびいているといった光景を、家持は越中で思い浮かべ、弟の死を悲しんだのでした。

佐保は自分が育った場所であり、大切な人々の思い出に繋がることから、家持には心に深く深く染みついた風景であったと言えましょう。

ところで、カール・ベッカー氏(京都大こころの未来センター教授)によると、末期患者に死をイメージした絵を描いてもらうと、故郷の池や川や山といった大自然の風景がけっこう出てくるそうです(読売新聞・2013年6月15日朝刊)。

家持は故郷で死ぬことはできず、持節征東将軍として、奈良から遠く離れた多賀城で没しています(785年8月)。しかも、亡くなった翌月には、藤原種継暗殺の首謀者として、隠岐に屍を流されます。罪人として遺骨が隠岐に留め置かれること約20年、家持が赦されたのは平安時代(806年)になってからのことでした。

家持は最期も死後も異国の地にありましたが、最期には、故郷の佐保の風景が目に浮かんだのではないでしょうか。

★歌は、中西進編『大伴家持 人と作品』(桜楓社)より引用いたしました。

(し)
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