短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(78) 柴五郎の遺文(13)

13.06.13

青森から五郎少年を同伴してくれた大蔵省出仕長岡重弘が同情して、しばらくの寄食を許す。さらに、9月、最初の鉄道が開通したころ、野田豁通が五郎のために山川大蔵に世話を依頼してくれた。多くの先輩たちが猟官・出世の糸口をつかむために汲々とし、一給仕の死活などに一顧も与えない風潮であるのに、自身の利害に拘泥しない野田の風格に接し、感激を新たにした。斗南の荒野から来たって、人の世の荒野にさまよい出たようなものだと、五郎は往時を述懐している。

山川大蔵方とて、多くの書生が毎日入れ代わり立ち代わり来泊する。困窮を極めているのは明らかだ。にもかかわらず、五郎の汚れた浴衣を気の毒がり、当時アメリカに留学中であった捨松嬢(後の大山巌元帥夫人)の袷(あわせ)を調製して与えてくれた。少女の着物であるから、傍目には異様であるが、自身は暖かくて満足した。

10月に入り、野田に呼ばれ、熊本出身の福島県知事安場保和の留守宅に下僕として斡旋された。朝夕邸内の掃除、家族三度の食事の給仕のほか、長女次女が女学校へ登校する際、書籍包みと重箱の弁当を下げ、人力車の後ろから駆けて供をする。また、退校時に空弁当と書籍包みを下げて、再び人力車を追って帰宅する。学校へ通う同年輩の娘を見て、下僕として当然ながら、自身を顧みて哀れを催さないはずはない。

この安場家は、赤穂義士大石内蔵助良雄切腹の際、介錯したことを誇りとする武張った家柄である。だから、自分の経歴を詳しく話せば、いくらか同情してくれたかもしれないと五郎は思ったが、もちろん一言も洩らすことはなかった。

このころ、浪人の身から陸軍会計一等軍吏に就任した野田豁通から、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)で生徒を募集するから受験せよ、という知らせが届く。欣喜雀躍した五郎は、安場邸に出入りする書生から読書と算術を教わり、にわか勉強を始めた。

新暦明治6年1月1日は、旧暦12月3日に当たる。つまり、この年は、一か月早く正月が訪れた。ところが、主人安場が落馬して重傷を負ってしまったため、一家を挙げて福島へ転居することになった。五郎少年の身の上を考えている余裕はない。すぐに退去を迫られた。しかたなく、再び山川邸に赴く。幼年学校試験の及落が決まるまで、暫時厄介になりたいと懇願すると、大いに同情され、母堂と常盤嬢の専断によって許可された。

寄食中のある日のことである。五郎は山川と母堂の前に呼ばれた。生活がままならないため、五郎から預かった金を借用したいという。元家老の身でありながら、下僕に借金を申し出なければならないほど窮していたのである。

3月になって、待ちに待った入校許可の報を受ける。共に受験した斎藤実は落第し、翌年海軍兵学校に入った。山川大蔵の喜びようは、五郎本人に勝るとも劣らないほどだった。早速、フランス式の軍服を買い集める。前に向け、左に向けといいながら洋服の着方を教え、一家を挙げて喜んでくれた。

4月入校の後、直ちに山川邸を訪れ、習いたての挙手の礼をすると、母堂は五郎の両肩に手を置いて、前から見たり後ろから眺めたりして、流涕した。帰途、野田邸に挨拶に行く。野田は、五郎の軍服姿を眺めつつ、「これでよか、これでよか……」と、ただ「よか」「よか」を連発するばかりだった。

熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を看るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。(第一部、101ページ)

野田豁通の恩愛はいくたび語っても尽すことができないと万感を込めて言っている。こうして五郎は、国軍草創の時代とともに歩んで行くことになった。

(G)
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