(75) 柴五郎の遺文(10)
13.05.13
塗炭の苦しみに身もだえながらも、会津武士の魂は失わない。
田名部川の水がややぬるみ始めた頃、犬の死体を手に入れる。その日から毎日犬肉を食らうことになった。初めはうまいと感じたが、調味料もなく塩で煮ただけだから、飽きが来る。主食不足を補うためだとはいえ、ついに口に含んだまま吐気を催すまでになってしまう。この様子を見て父はこう叱った。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」〈第一部、64ページ〉
いつにない語気の荒さに、口に含んだ犬肉を一気に飲み下したが、胸につかえて苦しいことこの上ない。さすがに、この様を見て、「今日はこれにてよし」と父も箸を置いた。だが、こうして20日間に亙り、犬肉と格闘したのである。そのためか、頭髪が抜け始め、とうとう坊主頭のように全体が薄禿となってしまった。
藩政府は、窮状にあっても藩士の子弟を教育するため、圓通寺本堂に学校を設置し、福沢諭吉の『世界国尽』『西洋事情』『窮理図解』などを教授することにした。五郎も毎日登校し、依然漢籍の素読を習っていたが、田名部から落の沢へと引き移ったため、登校できなくなった。
落の沢は山菜が豊富である。蕨の根から蕨粉を製し、田名部へ持って行くと、一升200文となる。日々百姓仕事に精を出しているところへ、再登校を勧めに先生が訪れるが、父や兄嫁の労苦を思えば、登校するに忍びなかった。
晩春、東京で勉学に励んでいた兄五三郎が突然訪れ、太一郎の代わりに開墾に加わる。五三郎は、学校へも行かない五郎の身を案じ、友人小林英衛宅に同居しつつ訓育してもらうことにした。月の一と六のつく休日には、配給米一升を携えて落の沢へ戻るのが常となったが、長くは続かない。
再び吹雪の季節が訪れる。休日通いが困難を極めるようになった。以前から下駄も草履も持たず、裸足のままだ。氷雪の上に裸足で立てば、凍傷になってしまう。常に足踏みをしているか、全速力で駆けるほかない。米一升を担いで氷結した山野を馳せ帰る姿を見て、父や兄が履物を工面しようとするのだが、容易でない。ある日、堪えかねた五郎少年が叔母を訪ね、履物の借用を願い出たものの、その余裕はないと断られている。
父、兄、自分は朝から夜まで、垂れた蓆をあおって無情に吹きこむ寒風に身を震わせながら縄をなっている。ともすれば感覚を失う指先に念力と怨念をこめて、ひたすら縄をなって過ごす。
この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様(ざま)はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。〈第一部、74ページ〉
「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」と断じているところは、おそらく後年振り返って覚えた悲憤慷慨を洩らしたものであろう。父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉を飲み下したことを五郎は忘れない。「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と父に励まされ、自ら叱咤するけれど、少年にとって空腹はいかんともしがたい現実であった。