(67) 柴五郎の遺文(6)
13.02.23
9月22日、突如として銃砲声がやんだが、新たな不安が去来して空虚を覚える。晴れ渡る晩秋の空を仰げば、その高く広く澄んでいることを異様に感じ、生き残りの赤蜻蛉の乏しい群れが流れて天地寂寞たる有様であった。
城下の様子を探りに出た下男留吉の報告により、降服・開城の噂が真実と知れる。降服したとはいえ、取り乱すことのない気丈な態度を会津藩士は示したと、留吉は嗚咽しながら語る。
「残念無念なれど開城せられたりと聞く、真なり。藩主御一統さまご無事にてすでに城外妙国寺にあり。藩士傷つける者多きも意気さかんにして、恥ずべきふるまいなし。全員帯刀を許されて城を出て猪苗代に護送されたりと聞く。沿道に敵軍蝟集して罵声をあびせ、唾吐きかけ、石投げつけなどするも、わが藩士泰然自若、形を崩す者なしとのことなり。城中にありし御婦人がた五百七十余人、城外にて降服せるものとあわせて喜多方付近の浜崎に収容されたりと聞く。御父君、五三郎様、茂四郎様の御消息聞きおよぶべき術(すべ)なく残念なれど、御安泰なりと推察す」〈第一部、37ページ〉
11月に入って、農家の子の姿だから安全と思い、きさ女らとともに旧邸の焼け跡に至る。赤く焼けた瓦礫ばかりで、庭木もほとんど見当たらない。見渡す限り、郭内の邸はことごとく灰燼瓦礫と化していた。遺骨の細片を拾い集めたものの、これが祖母・母・姉妹の変わり果てた姿だとはどうしても理解できず、涙が頬を伝って落ちるばかりである。何か生きた物はないかとようやく探し当てた玉椿の小株を持ち帰り、面川沢の山荘に植えた。これが後に大木に成長したという。
連日粉雪が舞い、寒気が身に染みる朝、留吉の報告にあった茂四郎兄がひょっこり姿を見せる。父子三名ともに猪苗代の収容所にあり、この日特に許しを得て、連絡のために訪れたのであった。茂四郎は、白虎隊に編入されていながら、城中に病臥していたため、かろうじて生き残ったのである。
太一郎兄が、叔父清助に就寝を促し、兄弟のみで囲炉裏を囲んで深更に及んだ。茂四郎は、城中での婦女子の奮戦ぶりを語って聞かせる。
城中にて婦女子の活躍ぶり、まこと目覚ましきことにて、敵砲丸城中に落下すれば、水浸したる蓆、俵の類を拡げて走り、この上に置いて消し、その被害戦士におよぶを防ぐ。また傷者の手当、炊出などやすむ暇なく、衣服よごれ破れるもかえりみず、血まみれになりて奮闘せる由なり。最後の時いたれば白無垢のいでたちに身を清め、薙刀小脇に抱きていっせいに敵陣へ斬りこみ果てる覚悟なりしという。〈同、42~43ページ〉
無論、この婦女子の中に山本八重(=後の新島八重)もいたはずである。ただし、柴五郎との接点はない。
時折軒から雪のなだれ落ちる音がして、囲炉裏の焔がすきま風に揺らぐ。五郎少年は、久しく忘れていた母の暖かい膝を思い、衣類を着せてくれた細い指先の感触などが蘇って秘かに落涙した。