(64) 柴五郎の遺文(4)
13.01.23
五郎少年は、面川沢の別荘に到着する。翌日、大叔父の未亡人きさ女に伴われ、山の幸を拾い集めて日を暮し、夕刻帰宅すると、会津若松から帰った下男留吉が、敵軍が城下に迫って危険であるから、明朝帰宅せよという母からの伝言をもたらした。
逸る気持ちを抑えつつ迎えた翌朝、洋服に大小を帯びて大雨の中山荘を出発する。泥濘の坂道を5・6町(=約540~640メートル)下った辺りで、聞きなれぬ轟が大地を這い、山間に反響しつつ大気を震わしている。さらに進むと、豆を炒ってはぜるような音が、大雨が傘を打つ音に混じって耳を聾するばかりとなる。城下が近づくにつれて、これが鉄砲の一斉射撃であると知られた。
湯沢村の北口に至ると、濡れ鼠となった避難民街道を埋めている。老いた者の腕を抱え、幼い子や病者を背負った者、槍・薙刀を手挟む婦人など、いずれも跣足(はだし)のままである。笠はおろか雨具も持たず、豪雨の水煙の中から陸続として現れ、絶えることがない。
不意打ちをくらった会津市街の住民は、三の丸へ馳せ参じたが、すでに城門が閉ざされて入れない。立錐の余地もなくひしめく群衆の頭上を容赦なく弾丸が飛ぶ。危険を避けて西南へ逃れるため、川原口の郭門を出ようとしたが、守備兵が頑なに開こうとしない。ようやく開かれた郭門から流れ出た群衆は、大川の渡船場へと殺到した。
この時の様子を五郎は『古河末東実歴』を援用しながら、以下のように臨場感に溢れた記述をしている。
このとき沿岸の農民警鐘を乱打し、蓑笠姿にて続々と馳せきたって小舟をあつめ、避難の群衆を対岸に渡す。舟すくなくしてはかどらず、河畔にむらがる者幾千なりや計りがたし。武家の子女は白布を頭に巻きて薙刀を杖つき、藩校の学生にして十二、三歳の者は双刀を佩(お)び、雨中に立ちて朝より夜にいたるまで難民を警護して動かず、満身雨水に濡れて淋漓(りんり)たり。小舟をあやつる農民もまた必死の形相して、濁流を往来し、疲労困憊(ひろうこんぱい)すれど休まず、ちかづく猛火に照らされて仁王のごとく、阿修羅(あしゅら)に似たり。砲声耳を聾し、火勢肌を焼くがごときも、救援の農民去らず夜を徹して奉仕す。転覆溺死せるものきわめてまれなりと伝う。〈第一部、27ページ〉
五郎少年が留吉とともに遭遇した難民の群れは、こうして逃れ来った者であった。ことごとく南へ向かう群衆に逆らって北を目指す二人を見咎め、火焔に包まれた郭内に入ることはできないから引き返せと口々に諫められたものの、帰心矢のごとし、難民の列から離れると、稲田に飛び込み、水しぶきをあげながら走って、一目散に母の許を目指した。すでに天守閣、角櫓(すみやぐら)などは黒煙に覆われて見えず、各所に紅蓮の焔を巻き上げている。我が家とおぼしい辺りに至っては一面の火の海である。
訪問どころか捜索さえ不可能を覚った五郎少年は、口惜しさに「母上、母上」と叫びつつ、地を叩き、草をむしって号泣した。母君はじめ御家人は必ず面川沢に来るはずであるからと留吉に促され、降りしきる豪雨の中、難民の群れにもまれつつ山荘へ引き返す。呼吸のみ荒く、言葉を発する者とてない。まるで亡者の群れのようであった。
山荘へ戻ると、逃れ来った未知の人々が屋内や軒下に充満している。午後に至ってようやく叔父柴清助が妻とともに疲労を極めた体で到着した。早速家人の消息を尋ねると、「のちほど……」と言って、すぐには返答しない。奥の部屋から難民を去らしめて後、身じまいを正して五郎少年にこう告げた。
「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし」〈同、30ページ〉
五郎少年を面川沢に送り出すまでに、男子は一人なりとも生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきだとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費してはならぬと籠城を拒み、敵侵入と同時に自害して辱めを受けないことを約してあったのである。わずか七歳の幼い妹まで懐剣を携えて自刃の時を待っていた。
城下を焼き払い、城を包囲したら、敵は城外にある藩士を必ず捜索するであろう。「芋武士奴(いもざむらいめ)、何をしでかすかわかり申さぬ」と憤激する一方、武家の子然とした恰好から百姓の姿に改めよと叔父が冷静に指示する。丸坊主にされた上、洋服や大小の刀剣を屋根裏に持ち去られた五郎少年は、「この夜こそ、わが生涯における武士の子弟最後の日となれり」と慨嘆した。