短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(52) 『近世畸人伝』(6)―孝子(2)―

12.09.22

前回、清水の次郎長が貧民や子供に施しをした話を紹介した。その点では、仏佐吉も同様である。

布の袋を腰に下げ、落ちている米穀の粒を道行くごとに拾い集め、雪の中に餌を探しあぐねている鳥に与えたり、処々にある土橋が洪水で流されることを恐れ、私財を投じて石橋に造り変えたりした。〈『続近世畸人伝』巻之一、279ページ〉

佐吉はまた、孝行息子でもあった。昼は、母の起居に注意を怠らず、夜は、母が寝静まるまで枕を取らないほどである。

ある時、母が蜜柑を欲しがった。しかし、近村には蜜柑の木がない。ただ同じ村に木を持っている者があった。しかし、きわめて吝嗇であるから、これに乞うのもどうかと躊躇したものの、仕方なく一つ所望すると、果して与えてくれない。その時、思いがけず一陣の烈風が吹き、蜜柑の実を数多く落してしまう。ケチもこうなっては拒めず、拾って与えた。〈同、278ページ〉

何やら「唐の二十四孝」めいた話である。宣長の項で見たように、中国の孝行譚はおよそ現実離れしていて信用がならない。しかし、この程度なら本当かもしれないという気にさせられる。儒教倫理の支配した近世社会であるから、この手の話は大好きで、畸人伝にはしばしば登場する。

河内の国日下(くさか)の里に、樵(きこり)を業とする清七という貧者がいた。母は、かつて富裕の家の乳母を勤めていたため、口が奢り、貧しくなってもなお、口腹に倹約できない。孝行息子である清七は、朝は誰よりも早く山に入り、夕は誰よりも遅く帰ることで、二人分を稼いでいた。その一人分で通常の賄いに当て、もう一人分で母の好物を購うのだった。ある日、母が鶉の炙り物を望む。翌朝早く起きて、市場へ出ようと準備していたところ、窓に当る物音がする。悪ガキどもが土くれを打ちつけたのだろうと思って、外へ出て見ると、鶉が二羽落ちていた。〈『近世畸人伝』巻之一、44ページ〉

若狭国三方(みかた)郡甲瀬浦(こうぜうら)、佐左衛門の妻にいとめという孝婦がある。孝心深く、姑亡き後、八十に余って老耄した舅にもかいがいしく仕えていた。ある年の冬、深い雪が軒を埋める頃、茄子(なすび)の羹(あつもの)が食いたいと舅が言う。直ちに近くの寺へ走ると、茄子の糠漬(ぬかづけ)をもらい、水に浸して塩を抜き、羹にして勧めた。また、これも冬に鮮魚を求められる。漁労の時期でないから魚はない。困った顔を見せず外へ出て、あれこれ思い煩っていると、たちまち魚が足元に飛び跳ねる。いとめは天を拝んで喜び、早速調じて舅に勧めた。隣人が見たところでは、鳶が魚をつかんで来て、いとめの家の棟に止まっていたが、そのまま魚を落して飛び去ったという。〈『続近世畸人伝』巻之一、285ページ〉

以上の二話なら、まだ偶然ということもあろうから、現実的に無理はないかもしれない。ところが、次の話となると、首をひねりたくなろう。

大和の国葛下(かつらぎしも)の郡(こおり)竹内村に伊麻(いま)という寡婦がある。六十を越えてなお老父に仕え、その孝は篤かった。寛文十一年六月、老父の病甚だしく、食事も喉を通らない。もし鰻があれば食べたいと父が洩らす。しかし、山中のため求めることができない。どうしたらよいかと困惑していたその夜、瓶(かめ)の水に音がする。驚き怪しんで伊麻が確かめると、好物の鰻が瓶の中に躍っている。喜んで膳に供すると、父の病は日に日に快方に向かった。〈同、巻之一、46ページ〉

伴蒿蹊も、この鰻の出現はさすがに変だと思ったのか、次のような後日談を付した。

貞享五年四月、大和路を行脚していた芭蕉が、この孝婦伊麻の話を聞いて、涙を止められなかった。そのまま京都へ出て書家北向雲竹(きたむきうんちく)に語ったところ、感動のあまり自ら大和路へ赴き、かの孝婦に会おうとしたが、門人が代りに行って、その姿を写し取って来たという。〈同、47ページ〉

畸人伝であるから、嘘やホラではなく、原則として事実に基づいた話でなければなるまい。しかるに、ここでは明確な年月を付し、「芭蕉、雲竹ともに聞ゆる人にして、見聞のたしかなる証かくのごとし」と断じている。そんな権威付けをしなければならないほど、筆者である伴自身が怪しいと思っていたのであろう。

「王祥が氷の裏(うち)の鯉、孟宗が雪の中の笋(たかんな)を、ただむかしの物がたりとのみ、なほざりに聞き過ごす人をおどろかすに足るもの歟(か)。」という、世人の注意をわざわざ喚起した結びは、その危惧を裏書きするものに違いない。

(G)
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