短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(50) 『近世畸人伝』(5)-孝子(1)

12.09.02

優れた人物にあやかるように、その人の言行をわずかでもまねることを譬えて、「爪の垢を煎じて飲む」という慣用句がある。大抵自分より他人の言動に対して「飲ませたい」と押しつけることが多い。『近世畸人伝』には、これと同等の意味で「毛髪の末をも吸はせばや」という言い方が見える〈巻之三、136ページ〉。

ここに紹介する仏佐吉は、まさに爪の垢を煎じて飲み、毛髪の末を吸うに値する人物であった。

永田佐吉は、美濃の国羽栗郡竹が鼻の在で、貧民を憐れみ、人と交わるに誠実そのもので、しかも孝子であったから、誰言うとなく仏佐吉と呼ばれていた。幼い頃、名古屋の紙屋に下僕として奉公していたが、暇を見ては手習いや読書に励むため、朋輩が嫉み、読書にかこつけて悪所へ通うのだと主へ讒言した。佐吉は、里へ帰されてからも、旧恩を忘れず、ついでがあれば必ず訪ねて安否を問う。年を経てその商家が大いに衰えると、綿の仲買によって得た金品を折々に贈ってやったという。その商売のやり方は、秤を持たず、買う時には買う人に任せ、売る時は売る人に任せた。佐吉の正直なことを知って、売る人は重く、買う人は軽く測ってくれたため、いくほどもなく財を成したのである。〈『続近世畸人伝』巻之一、276ページ〉

ここまでは、仕えた主人に対する恩を忘れず、正直な商売をしたという誠実な人物という印象であろう。ところが、その誠実は尋常でない。そこまでしなくともというほど徹底された。

佐吉は、早くに父を失い、母一人を養っていた。ある時、その母が餅を売りたいと言い出す。佐吉はその意思を尊重して餅を売り出すが、必ず小さくせよと勧めた。訝る母が理由を問うと、「近隣に以前から餅を売る店がある。こちらで大きくしたら、その商売の邪魔になるだろう。」と答えた。だが、小さくしても売れる物は売れたのである。
このように無欲で、儲けようという邪心がないから、山賊さえ恐れ入ることになる。

ある冬の年末、近国へ集金に赴いた。帰途、道に迷っているところへ山賊が現われ、金を奪おうとする。佐吉は、「昔は貧しかったが、今はこればかりの金は惜しくない。」と言って、投げ出した。ならば衣服も脱げ、と山賊は迫る。易いことだと佐吉は快く脱いで与え、「お前らはさぞかし寒いだろう。もっと欲しかったら我が家へ来い。みんなに与えよう。その代りに街道へ出る道を教えてくれ。道に迷ったのだ。」と頼む。すると、道案内に同行した山賊の一人がつくづくと佐吉の顔を見て、どこへ帰るのだと問う。佐吉が竹が鼻だと答えた途端、「それではあの佐吉さんではないか。これはまずい人の物を取ってしまった。我が一党の者に言い聞かせて、明日返さねばならん。」と言う。佐吉は「いや、お前たちに与えた物は、もはや受け取るつもりはない。」と言いながら、道を聞いて別れた。翌日、山賊は取った物をすべて還しに来ると、佐吉の言には耳を貸さず、置いたまま走り去った。〈同、277ページ〉

鎌倉時代の説話集『古事談』に安養の尼と強盗の話がある。

安養寺に住む尼の所に強盗が押し入り、部屋中のありとあらゆる物を奪い取って去った。尼は、残された紙の夜具を被るばかりである。尼に仕える小尼公(こあまぎみ)が、何か残っていないかと走り回って見ると、冬物の小袖を一着取り落している。これを尼に着るよう勧めると、「奪い取った物は、強盗も自分の物だと思っているだろう。持ち主が承知しない物をどうして着られよう。遠くへ行かないうちに早く返しなさい。」と尼が言う。直ちに小尼公が走り出て、強盗に呼びかけ、小袖を返したところ、強盗はしばらく考えてから、「まずい所へ来てしまった。」と言って、取った物をすべて還して退散したという。〈巻三〉

恐怖に戦き、わなわなと震える手で金品や衣服を渡してくれるのなら、強盗も仕事のしがいがあるというものだ。こうあっさりと施されたのでは、肩すかしを食らう。

ここで、街道一の大親分と謳われた清水の次郎長から直接聞いた話として、後に海軍中将にまで至る小笠原長生(おがさわらながなり)の引いた会話を紹介しよう。

「わしア、今日までに斬っつ張っつもずいぶんやった。しかし、これは善人だと思った者を向うに廻して喧嘩したこともなければ、親孝行だの主人によく仕える者と斬合ったこともない。そういう時には俺のほうから逃げていったもんだ。だから、俺は今になっても寝覚めの悪い思いは一つもない。」〈「私の見た清水の次郎長」―『文藝春秋に見る「坂の上の雲」とその時代』所収、368ページ〉

「これは偉い人間だ、と私は思った。」と小笠原が嘆じたとおり、次郎長の人となりがよく知られる逸話である。

また、次郎長は、外出する時、いつでも財布にたんまり金を入れ、着物を何枚も重ねて出た。困っている人を道で見つけた時に与えるためである。財布の金をやり尽し、着物をすべて与えて、素っ裸で帰って来る。道を歩けば、子供たちが何十人も寄って来て取り巻く。次郎長は、懐から蜜柑だの菓子だのを取り出して、「そら来た、そら来た。」と言っては、一人ずつ与えて頭を撫でてやる。〈同、371ページ〉

上記の山賊も強盗も、逆に取られたほうの佐吉も尼も、次郎長ほどでないにしても、双方とも義侠心にいささか通じる点があるかもしれない。
因みに、次郎長の墓碑「侠客次郎長之墓」を揮毫したのは榎本武揚(えのもとたけあき)であり、子分森の石松の墓碑は小笠原長生が書いたものである。

(G)
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