(46) 近世畸人伝(3)―清廉な医者―
12.07.22
患者の命より自分の財布を温めることに汲々としている医者を、かつて「医は算術」と言って揶揄した。「医は仁術」をもじったものである。無論、算術にたけた医者ばかりではなく、仁術を施す医者は多かろう。ただし、保健医療という大船に乗っているから、患者のほうがありがたみを感じないようだ。江戸時代には、健康保険制度は存在しない。だから、高価な薬代がかからないように自衛した。「薬石効なく」と言えるのは金持ちだけで、貧乏人は寿命だと思って諦めたのである。
永田徳本(とくほん)は、薬籠を背負って「かひの徳本、一服十六銭」と呼ばわりながら伊豆や武蔵を鬻ぎ歩いた薬売りである。江戸に滞在した折、将軍秀忠が病を得て、典薬の諸医の力をもってしても効果がなかった。ところが、徳本を召して治療に当たらせたところ、たちどころに平癒した。報償として様々な物を下賜したが、一切受け取らず、例の一服十六文の薬代しか受け取らない。その清廉が上聞に達し、何でも願うことがあれば言うがよいと、しきりに命ぜられたため、自分の友人に家のないものがある、これに家をいただきたい旨を徳本が申し上げたところ、ただちに甲斐国山梨郡に金を添えて賜わった。友人にその家を与えた後、徳本は薬を売りながら飄然と姿を消したという。(巻五、223ページ)
「時蕎麦(ときそば)」という落語にある通り、屋台の蕎麦が一杯16文であったから、徳本の薬はいかにも安い。しかし、大抵薬は高価であって、天井を知らないものだ。
太田見良(けんりょう)は、伊予大洲(おおず)の加藤侯に仕えた武士である。学を好み、京都で医術を学んだ。権威に屈することを潔しとしない清白さで知られ、薬物を選ぶのに極上の品を用いても、まったくその値段を気にしない。その理由を問われると、もし薬の時価を知ったら、自然と吝嗇の心が生じ、調剤の折に高価な物を減らすことになる。自分の浅ましさを思えば、薬の価格など問えないと答えた。(巻三、140ページ)
自らの生活が逼迫しているわけではないから、他人に施す余裕が生まれるというわけでもなかろう。ケチな者は、舌を出すのさえ惜しむほどケチだからだ。
それにしても、この二人は恬淡として快い。確かに一種の奇人といってよいかもしれない。
かつて筆者の同僚に、医者がいた。少しく変った男で、夜眠れないという。合宿に同行した時、隣の部屋から電話がかかってきた。「冷蔵庫の電源が入っていませんか。」という悲痛な訴え。隣室のコンプレッサーの音まで気になるのかと、急いで確認したが、冷蔵庫自体存在しなかった。山登りを終えた翌日、たぶん筋肉痛だろうと思い、「足の筋肉が張っていませんか。」と尋ねると、平然とした顔で「いや、大丈夫だよ。筋弛緩剤を打ったから。」だと。仰天した。そんな使い途があったのか。この医者に命を委ねるような事態にならないことを心から願ったことである。