(37) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(4)- 2
12.04.22
幽霊の実在が多くの人々に信じられていた時代だから、次のような滑稽談も成立した。
八丁堀に住む町人が、乳呑児を残して妻に先立たれた。くれぐれも里子に出さないようにと釘を刺されたにもかかわらず、男手一つの甲斐なさ、里子に出して、留守を弟に任せてしまう。妻の遺言を忘れて遊所に通う兄に腹を立てた弟が、自分も夜発(やはつ、街娼)を招き入れたところへ、突然兄が帰宅した。急ぎ夜発を二階へ上げたまま、弟は引き上げてしまう。妻の遺言に背いたことを詫びながら仏壇に灯明を上げていると、二階で物音がする。階下へにゅっと顔を出した夜発を亡妻の幽霊と勘違いした兄は、近所へ知らせに走る。幽霊の噂で借り手のなくなることに頭を抱える家主や地主に、亡妻の執念が残る所へ子を戻して乳母を置くわけにいかないから、里親に養育料を増すのがよい、と提案する者がある。相談がまとまってようやく二階を探ると、真っ白に白粉を塗った異様の女がふてぶてしく寝そべっていた。様子を見に戻った弟から真相が知れ、一同大笑して事なきを得たのだが、養育料の増加が沙汰やみとなったことは言うまでもない。(巻之九、亡妻の遺念を怖れし狂談の事)
前回紹介したとおり、死後に「意念」が残ると信じていたようであるから、心配のあまり真剣に善後策を講じる家主らの姿は滑稽だが、無理もない。
怪しいと思っていても、どこかで信じてしまっているから、その場に直面すれば大慌てとなる。これは何も江戸時代の民衆に限らない。文明開化を迎えてもなお、全く変るところはなかった。明治初期に発行された錦絵新聞にも、幽霊を取り上げた記事が見られるのである。子を残して死んだ母親の霊が夜な夜な現われる、台湾出兵で戦死した義弟の霊が久闊を叙しに来る、冷酷無比の殺人者に亡者が襲いかかる……。
錦絵新聞とは、基となる新聞記事から錦絵を起こし、それに簡単な概要を添えた一枚物の新聞である。現在の写真週刊誌の類と思えばよい。七語調をちりばめた原文のリズムを味わってもらうために、一例をそのまま掲げよう。
年年歳歳相似たる千種(ちぐさ)の花の盛なる葉月(はづき)は、旧暦(もとごよみ)の文月(ふみづき)にて、歳歳年年、同じからぬ亡魂(なきたま)祭る鼠尾花(みそはぎ)の露と消(きえ)にし産婦が思ひは、送り火の焼野(やけの)の雉子(きぎす)、蝋燭立(ろうそくたて)の夜の靍(つる)。跡に残りし最愛児(いとしご)に、ひかれて迷ふ箒木(ははきぎ)の有(ある)か無きかに顕(あら)はれて、さめざめと泣(なき)て云へるやう、汝等(いましら)二人(ふた)りが薄命なる。侘しき爺子(ててご)の手一つに育てらるれば、万(よろづ)の事に不自由がちにぞありぬべし。乳呑(ちのみ)の妹(いも)は吾儕(わたし)が伴育(ともなひそだ)てあげん、と抱きしめし姿は、仏壇(たな)の土器(ほうろく)の香の煙と消失(きえうせ)ぬ。嗟(ああ)、愛着(あいじゃく)の妄念は脱離せずんばあるべからず。文明開化の今日に斯(かかる)譚(はなし)は無き事なれば、虚説を伝ふる戒(いましめ)とす。
小説の作者 転々堂鈍々記
(東京日々新聞 百一号、明治7年9月)
末尾に附された「小説」とは「つまらない話」というほどの謙辞で、現在のノベルを指すわけではない。なお、「作者」という言い方に奇異を覚えるかもしれない。実は、この記事の出所となる元記事は存在しない。たぶん転々堂鈍々の創作であろうから、まさしく「作者」に違いない。
「文明開化の今日にかかる譚はなきことなれば」と近代人ぶって転々堂は断るが、大衆の求めたのは、相変らずこの手のものであった。従って、幽霊話そのものが記事になるくらいだから、幽霊を信じる大衆の心情を逆手に取った次のような詐欺事件ともなれば、何を恥じることもない、歴とした新聞記事であった。
武州秩父郡薄村の農民某は、病気で妻を失った後、悲しみに沈んだまま引き籠っていた。ある夜、枕元に亡妻の面影が朦朧と映って消える。翌日菩提所に香花を手向け、夜を待っていると、再び妻が現われ、生前大切にしていた髪飾りや小袖が惜しく、また夫の身を案じて妄執に惹かれたのだと訴えたため、欲しいといった品々を枕元に置いた。この話を聞いた友人が不審に思い、確かめるため夫の家に泊る。夜半に現われた妻が今度は金を無心したため、友人が捕えてみると、隣家の女房が幽霊に化けて金品を詐取しようとしていたのだった。(同上 九百十一号b、明治8年2月)
これは、「東京日々新聞」(明治8年1月19日付)の「江湖叢談」に掲載された記事を要約して再構成したものである。その元記事によると、二十余年前にもこれと同じ騙りが上州高崎の北にある福島村でもあったという。それだけならいいが、「元来秩父は例の三十三所の観音を始め、仏寺多くして、往古より僧徒の妄誕に迷い居る愚民多き僻地なれば、彼の輪廻報応の説などに欺かるる事すくなからず」と愚民扱いしたうえ、「不開化の風俗なり。総(す)べて世に亡魂の事など云ひ伝ふるは、斯(かか)る類のうまく行(ゆき)しが多きなるべし」と、自分だけは開化の先兵であるかのごとく大衆を見下した姿勢まで垣間見せてくれる。
開化期の操觚者(そうこしゃ)が陋習(ろうしゅう)だといくら断罪しても、『耳嚢』の時代そのままである。さすがに現在では、一部のスポーツ誌以外、まともな新聞が取り上げることはなくなった。だが、忘れたころに心霊写真などが復活し、稲川淳二の怪談に耳を傾けているのを見ると、民衆の興味の対象は頑固なほど不変だとしかいいようがない。