短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(22)「三方一両損」―1

11.11.22

大岡政談といえば、子供の養育権をめぐって生みの母と育ての母が争い、決着がつかないため、奉行が両者に子供の手を引かせ、引き寄せた方に与えるという裁決がある。人情裁きであるから、手を引かれて痛がる子供がかわいそうで、自分の手を放してしまった育ての親の方に奉行は子供を委ねることになる。

『醒酔笑』所載の板倉政談には猫の所有権を裁定する話があるが、これと直接関係はない。むしろ、中国宋代に成立した『棠陰比事(とういんひじ)』にまで遡る。日本へは、早くも鎌倉時代に舶載されていた。

要するに、『棠陰比事』から材を得た『板倉政要』が元禄以前に広く流布し、さらにこの両者を参考にしながら西鶴筆とされる『本朝桜陰比事』(元禄2年-1689-初版)が上梓されたのである。

大岡忠相が41歳という若さで江戸町奉行に就いたのは、享保2年(1717)であるから、大岡政談は、これらの文献を下敷きにずっと後世になって創作されたものと知られる。

大岡は、裁判官というよりも行政官として極めて有能な人物であったらしく、晩年に至り、72歳で一万石の大名へと昇進している。板倉を初めとするすべての手柄がこの名声に集中してしまったというわけだ。
創作とはいえ、大岡政談はなかなか面白い。ここで、落語や講談によって巷間に伝わる「三方一両損」の話を紹介しよう。その概略は以下のとおりである。

江戸白壁町の左官金太郎が三両入りの財布を拾う。印形(いんぎょう)と書付から神田堅大工町に住む大工吉五郎の持ち物と分かり、早速届けに行くと、吉五郎は、印形と書付は受け取るが、落とした金はもう自分のものでないから、受け取れないと言う。返す、要らないの押し問答から喧嘩に発展し、大家が仲裁に入る。奉行大岡越前へ訴えることでひとまず金太郎は帰った。

ところが、事情を聞いた金太郎の大家は、自分の顔が立たないと言って、こちらからも奉行へ訴え出る。白洲(しらす)でも両者は譲らない。そこで奉行は、両名の清廉を褒め、三両を越前が預り、改めてそれぞれに二両ずつ遣わすと裁定した。拾った金太郎と落とした吉五郎は、三両のうち二両を受け取って、一両の損、越前は一両足したので、やはり一両の損。三方一両の損で収まるという名裁きであった。

落語では、これに加えて、両名にお膳がふるまわれる。鯛の塩焼きに大いに食欲をそそられた二人に対して、越前が「双方あまり空腹だからといえ、たんと食すなよ。」とたしなめると、「おおかあ(=大岡)食わねえ、たった一膳(=越前)。」と応じる。落語らしい下げだが、これは明らかに付け足りに違いない。【続く】

(G)
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