(19) 板倉政談(2)-1
11.10.23
板倉勝重・重宗・重矩の三代に亙る奉行職が残した政談(裁判説話)を集成したものが『板倉政要』である。17世紀後半の成立とされ、相当数の流布本が作られたことから、当時の人々の間で人気の高い読み物だったのであろう。一般に史料に編入されるが、後の通俗小説のさきがけをなす文芸書と言っていい。現在、活字で読もうと思っても、まだ容易には手に入らない。ここでは、熊倉功夫氏の翻刻本文に拠った。
板倉政談から大岡政談までを通じて共通する思想は、人情味と頓知であろう(大岡政談にはさらに探偵趣味が加わる)。思いがけない機知をもって裁くことにより、人情に掉さすことになる。否、人情を重んじるがゆえに、機知を働かせて解決すると言ったほうがいいか。民衆受けを狙えば、この二つの要素は欠かせない。
さて、人情味の溢れる裁きについては、一部前回紹介した。今回は、頓知の例を取り上げよう。
都に住む有徳人(=金持ち)の娘が同業者仲間の男と婚約したところで、父が病死した。母は娘に対する愛着が甚だしく、婚約を解消しようとする。しかし、男のほうは承知しない。所司代へ訴え出た時、娘は15歳、男は35歳であった。すでに媒酌人を立てて成立した約束であるから、違約はできないのだが、母は引き下がらない。娘はまだ幼い、婚約した男は年かさだ、せめて男の半分の年数であれば、似合いといえるのだが、このままでは娘がかわいそうだ、と言って、婚約解消を直訴した。伊賀守は、娘の年齢が夫の半分なら文句ないのだな、と念を押し、母の異議のないことを確認した上で、町年寄どもを立ち合わせて、夫の半分の年齢なら嫁取りを許可する旨の証文を調えさせた。
その後5年を経て、伊賀守が再び関係者を呼び出す。夫は40歳、娘は20歳になった。伊賀守は、今や母娘の望むとおりになったのだから、早々に祝言を調えよ、それがしも二度の媒酌に当ったわけだから、祝いに酒樽を送ってやる、と言って笑った。〈巻第七「妻女公事捌之事(さいじょくじさばきのこと)」〉
無論、単なる算数の問題であるし、そこへ思い至らぬ母は愚かだと言ってしまえばそれまでだが、板倉の判断は、婚約者と母娘との両方を立てる無策の良策に違いない。末尾にある「もっともの御捌(おさば)きと感じけるとかや」という評言は、だれも傷つけない結末を導くその頓知に感じ入ったものだ。【続く】