(179) 江戸の珍談・奇談(25)-7
17.11.10
野州(現在の栃木県)は人心質朴な所で、辺鄙はことにそれが甚だしい。どこからやって来たのか、術師が現れて色々の不思議を見せる。集まった人々がもてはやすと、その男、「自分は深山に入って一道人に会い、色々の奇術を学んだ。これから江戸へ出て、人のためになることを教えようと思う。この辺りの田舎では大して教え甲斐のあるものもない。水に入って死なない法くらいのものだ」と言う。「それは容易ならざることに違いない」と人々が言うと、「そんなことはない。口伝だ。一度学べば終生水で死ぬことはない。だが、その法を修するのに、荒行をしなければ教えることができない。得難い供物を多く山の神に供える儀式だから、金八両ほど物入りもかかる。だが、一度行を修めれば、一度に二十人程度は教えることができよう」と男は言った。
人々は結構なことだと、二十人ばかり寄り合って、金八両を出すことにした。男は二両を受け取り、山に入って荒行をすると言い、「七日に満ちる日に至ったなら、人々が寄り合ってくれ。他聞を憚ることであるから、書き付けとして授けよう」と言う。山に入って六日目の夜、金子を残らず受け取り、幾重にも包んだ紙を出し、再び山に入るからと言って、「この包みを今夜四つ時に寄り合って開くがよい。水に入って死なない法が自然と会得できるはずだ」と告げた。
その夜、約束の刻限に集まった人々が段々と包みを開いて最後に至ると、奉書の紙に人の足を描き、脛の中程に朱で横線を引き、これ以上深い水に入ってはならない、と書いてあった。人々は顔を見合わせて、急には訳が分からず、色々考えたけれども、別に深い意味があるとも思われない。さては騙されたかと気付いて、その男を探したが、山へ入ると言って出たのは昼時前のことであるから、どこへ行ったのか、姿が見えない。
後にその術について聞いたところによると、刀が自然と抜ける法、盃に酒を盛り上げる法、空中に釣った花活け、わら人形を掌に立てる、灯心で大石を釣り上げる法などで、すべて縁日に出て手品の伝授として行う法であった。〈『反古のうらがき』24~25ページ〉
縁日での催しにまともな出し物はない。かつて「六尺の大いたち」とある看板に吊られ、巨大な鼬がいるものと思って入ったところが、六尺の大板に血が付いていたという笑い話もあるくらいだ。縁日の経験を重ねれば、騙されて当たり前と誰もが割り切るようになる。だから、むしろ騙されたと腹を立てる方が馬鹿だと指弾された。
「かく辺鄙にては珍しき故、あざむかれしなりけり」と著者である鈴木はこの話を結ぶ。江戸なら「生き馬の目を抜く」といわれるほど油断のならない町であるから、こんな単純な手に騙されるはずはないとでも言いたげである。確かに、耐性の出来ていない僻陬の地ならこの種の詐欺に手もなく引っかかったかもしれない。
鹿島茂『「悪知恵」のすすめ』(2013年4月、清流出版)によると、フランスに振り込め詐欺はあり得ない由。人は騙すものであるから、安易に信用して騙されるほうが悪いという論理だそうである(多分、フランスだけではないと思う)。騙すのが絶対悪ではないから、騙すなと戒めることはない。騙されるなと教育する。完全に性悪説に立った人間観であるが、重要なことは、我が国が現実にこのような国と対等に渡り合っていかねばならないことである。排外主義を標榜する悪役然とした国はともかく、偽善の仮面を被った詐欺師を信用し過ぎて骨の髄までしゃぶられることのないよう願いたい。