(120) 江戸の珍談・奇談(10)
14.09.17
江戸深川住民の奇行を集めた『深川珍者録』(『続燕石十種』第一巻所収)という珍書がある。序文にある宝暦10年-1760-に成立したと見られ(同書後記)、その自筆本を文化5年-1808-に曲亭馬琴が入手した。巻末には馬琴による以下の識語が付されている。
此の書、何人の作れるを知らず、深川は余が出生の地なるに、いとけなき時、見もし聞きもしつる事の、この記のうちにあるがいとなつかしくぞおぼゆる、文辞の拙きはさらにもいはず、事みな実録にて、しかも作者の自筆なるべくぞ見ゆるかし〈『続燕石十種』第一巻403ページ〉
ここに収載された話は実録だと馬琴先生のお墨付きを得たのだから、自信を持ってその中から毒婦の話を一つ紹介しよう。タイトルは「冨吉屋おむめ婆々が事」という。
小名木川に邸宅を構える真野某は、書院番勤めの旗本である。近江の国に300石の知行地を領する大層裕福な家であったが、それまで無暗に金銀を浪費せず、倹約に努めていた。堅実な使用人に屋敷の管理を万事任せていたところ、病死したため、後任として只右衛門という者を抱えることにしたのだが、その女房お梅がこの話の主人公である。
お梅は「不敵の似非者(えせもの)」で、自身の生国を名乗らない。ただ井伊殿の落胤だと戯言を弄し、声高に吹聴していた。主人をたぶらかして馬鹿者にし、屋敷一切を我が思いのままにしたいと腹の底で企んでいたお梅は、当初そんなそぶりを毛筋ほども見せず、主人に金が入る算段ばかりを勧める。例えば、広大な土地をそのままにしても無益であるから、町人相手に一年5両の賃貸しをすれば儲かるはずだ、と流れるように弁じ、隣家の主人と相談して、早速その手配をしてしまう。主人も働き者だと感心し、心置きなく用事を言い付けるようになったから、好機到来とばかり、女郎遊びの面白さ、間夫(まぶ=遊女の情人)となる楽しみを得意の弁舌をもって朝に夕に吹き込む。
お梅に唆された真野は、新吉原江戸町二丁目兵庫屋の女郎錦木(にしきぎ)に「捨て情けの尻目(=秋波)」を使われ、すっかり「魂鼻の先を廻」るようになってしまったから、自邸にも帰らない。知らぬが仏とばかり、お梅が屋敷内を揚屋のように設えると、義太夫節やら豊後節やら、同類が蝟集する。今では真野自身も「小袖のしわ延ばすに隙なく」、長い袖下は塗下駄をこするほどになっていた。
ある年、小伝馬町へ行き、帰りに油町辺を通ったお梅が、伊勢屋市兵衛という糸類を商う、真野邸へも出入りする店へ立寄った。忌中の札が下がっていたにもかかわらず、麻を買おうと大声を立てると、奥から手代が現われる。お梅の身なりがあまりむさくるしいため、物もらいと勘違いし、米を摑み出したから大変だ。烈火のごとく怒ったお梅は、武士たるべき者の妻が乞食扱いされて一分が立つものか、と息巻き、平身低頭する店の者が差し出す金三分を不承不承に巾着へねじ込んでようやく帰った。
お梅はまた、屋敷内の草履取七平と密通したばかりか、自分の定紋の付いた着物を愛人に着せ、「厚き面の皮へ、霜降りたるごとく白粉(おしろい)を塗り、霜がれの薄(すすき)ほどなる髪へ、油したたに付け」ては、夫只右衛門の前をも憚らず、七平の手を引いて通り過ぎたという。
このお梅婆さんのために「新たわけ」となったものは数知れない。だが、とうとう悪事や不行跡が真野一家に知れ、夫とともに追放された。しかし、その後どう世を欺いたものか、本所二つ目弥勒寺前に釜屋という暖簾をかけ、「面の皮の洗濯」をしていたが、近ごろは永代寺御旅所に女郎屋を出し、抱え子を虐待しながら今も存命だ、とこの話を作者に紹介した者は、語り終えるや、尻に帆かけて東へ飛ぶように走り去ったという。