(119) 江戸の珍談・奇談(9)-2
14.09.06
まず、次の文章をお読みいただこう。
市村芝居へ、去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、前かたは、米河岸(こめがし)にてきざみ煙草売りなり。とっと軽口、器量もよき男なれば、「とかく役者よかるべし」と人も言ふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫のもとへ、つてを頼み出けり。明日より顔見世に出ると言うて、米河岸の若き者ども頼みて申しけるは、「初めてなるに、なにとぞ花を出してくだされかし」と頼みける。目をかけし人々二、三十人言ひ合せて、蒸籠(せいろう)四十、また一間の台に唐辛子を積みて、上に三尺ほどなる造り物の蛸(たこ)載せ、「甚五兵衛殿へ」と張り紙して、芝居の前に積みけるぞおびただし。甚五兵衛大きに喜び、「さてさて、恐らくは伊藤庄太夫とわたくし花が一番なり。とてものことに見物にお出で」と申しければ、大勢見物に参りける。されども、初めての役者なれば、人らしき芸はならず、切狂言(きりきょうげん)の馬になりて、それも頭(かしら)は働くなれば、尻の方になり、かの馬出るより、「この馬が甚五兵衛」と言ふほどに、芝居一同に、「いよ、馬様、馬様」としばらく鳴りも静まらず褒めけり。甚五兵衛すごすごともならじと思ひ、「いいん、いいん」と言ひながら、舞台内を跳ね回つた。〈『鹿の巻筆』第三「堺町馬のかほみせ」、『燕石十種』第六巻233ページ〉
役者として初めて舞台に立った嬉しさの余り、客席から声をかけられると、馬の後足を担当していた者が、「いいん、いいん」と声を立てて応答してしまったというのである。恐らく、大方の読者が他愛のない笑話としか受け取れまい。事実、貞享3年-1686-に刊行された『鹿の巻筆』は、仕方話の名手鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)の手になる咄本(はなしぼん)であって、落語のようなものだ。
ところが、刊行後9年も経った元禄7年-1694-になって、板木は焼却、著者武左衛門は伊豆大島へ流罪という厳しい処罰が突如として下った。人の演じた馬が「いいん、いいん」と答えたという話が遠因とされたのである。そこで、宮武外骨『筆禍史』の引く関根正直『落語源流談』他によって知られる経緯を要約しながら紹介しよう。
元禄6年4月下旬、ある所の馬が人語を発し、「本年ソロリソロリという悪疫が流行する。これを予防するには南天の実と梅干を煎じて呑め」と警告したという噂から事件は始まる。この流言飛語が江戸中に拡大し、南天の実と梅干の値が二十倍に高騰すると、手に入れるために生業も手に着かない者まで出た。奉行所から噂の出所を探索するよう厳重に通達まで出される事態となる。やがて八百屋総右衛門、浪人筑紫園右衛門の両名が梅干呪い等の書物を作り、暴利を貪っていたことが判明した。その着想は鹿の巻筆にあるこの話から得たというのである。
首謀者である筑紫は市中引き回しの上斬罪、総右衛門は流罪となるところ、牢死した。それは当然として、この詐欺事件に全く関係のない鹿野武左衛門がなぜ罪に問われたかというと、出版取締令第1条「猥(みだ)りなる儀、異説等を取り交ぜ作り出し候ふ儀、堅く無用たるべき事」に違反したと見なされたらしい。
とんでもない言いがかりである。傷心の武左衛門は大島で6年間謫居した後、江戸へ帰ったものの、身体の衰弱が激しく、元禄12年に没している。
『鹿の巻筆』を翻刻発行した経験のある宮武外骨は、例言中に以下のような評言を付し、その理不尽を大いに慨嘆した。
詐欺漢が落語本を見て、奸策を案出したりと云ひしとて、其奸策に何等の関係なき滑稽落語の作者及び版元をも罰するは、古来法典の一原則とせる「遠因は罰せず」と云ふに背反したる愚盲の苛虐と云ふべきなり〈『筆禍史』39ページ〉