短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(97) 勉強を止むることなかれ

14.01.05

いよいよ平成26年の始まりです。元日に今年の目標を立てたり、気持ちを新たに頑張ろうと思ったりした方も多いと思います。一方では、年賀状で友人の華々しい活躍を知り、どうして自分はだめなんだろうと思った方もいるかもしれません。

勉強や仕事が思うようにいかず落ち込むことは誰にでもありますし、昔の人も同じでした。『新撰朗詠集』には、高階積善(たかしなのもりよし 平安時代中期)の次のような句が載っています。

栄路遙かにして期し難し 春陽寒木の頂(いただき)に薄(せま)る
筆耕疲れて未だ獲らず 秋の風虚苗の畦(うね)に暮れぬ

私にとって、栄達の路は遙かに遠く期待するのが難しい。また、学問に努めるのにも疲れ果て、得るものが未だ何もなく、実をつけることのない苗が畑の畦で秋風に吹かれ夕暮れを迎えてしまったようなものだ、という句です。

この句は積善が亡くなる約10年前、寛弘元年(1004)九月尽日、北野天満宮での作だそうで、積善はおそらく40歳前後でしょうか。当時40歳と言えば「四十賀」という長寿のお祝いをしましたので、老齢の域に達していたと言えます。

若い日はあっという間に過ぎ去り、気がついた時には、すっかり年をとっていて、学問も仕事も成果をあげることができなかったと嘆く姿は、まるで私そのものです。学問の神・菅原道真にすがるように、どうにか大成したいと祈る高階積善の姿が思い浮かびます。『本朝麗藻』を編集した高階積善ですらこう思うのですから、まして況や凡人をや…。

『倭名類聚抄』を編み、『うつほ物語』の作者に擬せられ、「梨壺の五人」の一人でもあった源順(みなもとのしたごう)もまた、官位に恵まれず不遇でした。天禄二年(971)和泉守退任後、天元三年(980)年に70歳でようやく能登守を得たのに、永観元年(983)に73歳で亡くなっています。驚くべきことに、数々の文学的業績を残しているにもかかわらず、文章博士にはなれなかったそうです。

次の句では、友人が「対策」という試験に合格して蔵人所に補任されたのに、自分(源順)は合格できなかったことが詠まれています。

鳳掖には君誇る温樹の露に 龍門には我泣く浪華の春に(『新撰朗詠集』)
[君は宮中で天子の暖かい惠みを受け、誇らしげ。それに比べ、私は今年も対策に落第し、波の花の咲く春、涙にくれている。]

源順が文章生に補されたのが天暦七年(953)43歳の時で、その後に文章得業生となり、数年勉学に励んだ後、対策の試験を受け不合格であったと考えると、涙が出てきます。対策に合格できれば、官界に入るか、文章博士をさらにめざすことができたそうですが、なぜか順は合格できませんでした。

石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」(『一握の砂』)を源順に贈りたくなりますね。

多くの先人たちが、私どもに「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」ということを教えてくれます。

嘆いていても仕方ありません。本居宣長も「才の乏しきや、学ぶことの晩(おそ)きや暇のなきやによりて思ひくづをれて、止むることなかれ」(『うひ山ぶみ』)と言っています。「さあ、今年も勉強しましょう!」と、自分に言い聞かせました。

※『新撰朗詠集』の訳と内容は、柳澤良一「新撰朗詠集の魅力」(『女子大國文』153号)を参考にしました。

(し)
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