(216)「べらぼう」外伝―植松自謙― 20251215
25.12.15
「植松ジケンの話をしてくれと頼むと、お祖父さんが喜ぶぞ」と親戚から教えられたものの、松川事件か何かの事件なのかな、と思っただけで聞かずじまいにしてしまった。
それから60年を経て、たまたま森銑三『人物逸話辞典』(1985年、東京堂出版)を覗いていたら、「植松自謙」の名が目に入った。心学者で信濃の人とある。さらにネットで調べると、現在の長野県諏訪郡富士見町の出身だった。筆者の郷里でもある。
この植松は、村の名主だったが、江戸へ出て「出雲屋和助」と名乗り、赤坂の田町辺に店(たな)借りして、貸本屋業を営む。小川町佐柄木(さがらき)町にあった近藤左京の長屋で、石門心学の開祖石田梅岩(いしだ ばいがん 1685~1774)の孫弟子にあたる中沢道二(なかざわ どうに 1725~1803)の塾に出入りするようになり、心学に執心する。月の1・6・25日の定例には欠かさず出席して聴聞したばかりか、万事に気遣いをして、茶の番や煙草盆の世話などを一人で行った。これによって、社中の人たちは、和助を赤坂菩薩、出雲屋菩薩、和助菩薩などと異名したそうである。後に心学の場所が転々としても、和助は引き続き懇切に世話をした。中沢に次いで「参前舎」の第2代舎主となり、心学の講話のため諸国に赴いてもいる。文化7年(1810)、京都に没した。
ここで、この12月14日に最終回を迎えたNHKの大河ドラマ「べらぼう」とつながる。
まず、石門心学は、石田の門下手島堵庵(てじま とあん 1718~1786)が大成したため、当初「手島学」と呼ばれていた。その手島の弟子である中沢道二の道話を松平定信(1758~1829)が「心の学び」と言ったところから、「心学」と称せられるようになったという。
次に、心学は、儒教はもとより仏教や神道の真理を材料にして、分かりやすく忠孝信義を説く。寛政の改革の頃には、心学教化運動の黄金時代を迎えていた。時に、風紀の粛清や風刺本の取り締まりが松平定信によって徹底的に行われ、吉原物が発禁とされてしまう。そのため、ドラマの主人公蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう 1750~1801)の耕書堂も身上半減の処分を受けた。
出版書肆が困窮するそんな状況下、山東京伝(さんとう きょうでん)『心学早染艸(しんがくはやぞめぐさ)』が寛政2年(1790)に刊行され、累計1万部も売り上げたという。そこに登場する「善玉・悪玉」は、現在も用いられる「善玉菌・悪玉菌」などの初出である。善玉は良心、悪玉は邪心の比喩であるが、これが幕府による人民教化の方針に迎合した内容だったから、世を茶化すのが使命だとする蔦重の耕書堂からは出版されなかった。
その耕書堂と出雲屋和助とにどんな関係があったかは、まだ調査していないから何とも言えない。ただ、和助と蔦重とは同年(1750)の生まれである。江戸へ出た和助が貸本屋として耕書堂と関わりを持っていた可能性は十分あると思っている。
さて、森銑三が山崎美成『海録』から引く、和助(山崎は「和介」とする)の逸話を紹介しよう。ある時、和助の家が類焼した。貸本や諸道具を取り出さず、怪我でもするといけないからと身一つで退き、絵仏師良秀のように焼ける様子を和助は遥かに見物していた。また、後に麹町(こうじまち)秩父屋某方に同居して、その家の子息に素読の補助をして、経書の語釈などもして聞かせた。そんな折にも、自分は何も知らぬ様子で、「かようなのではあるまいか」という謙遜な風であったという。
和助は、後に植松自謙と改名し、郷里に「時中舎」という心学の塾を作ったほか、信濃・上野(こうずけ)・甲斐を合わせて13舎の設立に関わった。あのような寒村からこんな偉人が出ていたとは知らなかった。自謙の墓は郷里の同じ字(あざ)の地にある。いずれ祖父の墓参りを兼ねて探してみようと思う。 (G)

東京都立図書館蔵「心学早染艸」 詳しくはこちらをご覧ください。












