【コラム】津村正恭『譚海』
24.07.03
津村正恭『譚海』(江戸後期の随筆、寛政7年-1795-序、全15巻)の巻之八から、胆力と知恵によって盗賊に与えた金を取り返した僧の話を紹介しよう。
武蔵の国青梅の天領に金龍寺という禅刹があった。ある宵の時分に盗賊が二・三人入って来て、門番を縛り付け、「声を立てたら殺す。住持の居間へ案内しろ」と脅し、門番を先に立てて抜き身の刀のまま、庫裡(くり)へと進む。居間に至ると、和尚は煙草をふかしながら、悠然としている。「金子を借用したい。早く出せ」と賊が迫っても、和尚は少しも騒がない。「なるほど、おのおのが抜き身では危ない。金子を出してやるから刀を納めて落ち着きなさい」と言うので、盗人らは刀を鞘に納めて座った。
そこで、和尚が言うには、「ここに金子五両ある。これ以外にはない。これを持って行くがよい」と言うのだが、盗人は、「あまりに少なすぎる。この程度ではあるまい。隠さずに出してもらいたい」と威圧する。和尚は、「沙門の身というものは、そんなに余計な金子を蓄えるものではない。蓄えても用がないのだから、私が持ち合わせているのはこれだけだ。もし不足だというのなら、寺の者に持ち合わせがあるかもしれない。取り揃えてやろう」と言って、弟子の僧や下人などを呼び出す。
「このような脅しに遭ってどうにもならん。その方らに蓄えがあれば、この五両の上に少しでも足して取らせたい。どうか今夜だけ貸してくれないか」と、頭を下げて彼らを説得する。金子二歩(ぶ)・三歩と集めて六両ほどになったものを賊に渡しながら、「ご覧のとおり、これほど探し回っても、これ以上寺の中に持ち合わせの金子はない。申し訳ないがこれを持って帰られよ」と言うと、盗人らも、それもそうだと思って、その金を懐中にした。その時、和尚は、「おのおの空腹ではないのか。茶漬けでも召し上がるがよい」と、ありあわせの食事などを勧める。盗人らは、そうして時を移して後、暇乞いをして帰った。
しばらくしてから、和尚がひそかに賊の跡を付けて行くと、長屋門のある百姓の家に入って行く。和尚は、それを見届けると、その辺にあった泥を手に塗って、扉に手形を捺(お)し、その上に一の字を書いてから戻った。
夜が明けてから弟子を呼んで、「この何々村の中で、手形を捺して一の字を泥で書き付けた扉のある家に行って、さりげなく昨夜泊めた人は何と申すのか、姓名を聞いて帰って来い」と命じる。弟子が教えられたとおりに聞き質したところ、何某という旗本で四百石の知行所を領する人だという。そこで、和尚は、その家に至り、弟子の聞いて帰った姓名を持つ武士に案内を乞い対面したところ、紛れもない昨夜の賊であった。そこで、直ちに和尚がその人に「昨夜ご無心のためにご用立てした金子を返していただきたい」と辞を低くして言うと、その武家は無抵抗のまま、何も言わず金を出して返したという。
殺伐とした押し込み強盗が目立つ現代と違って、のんびりとした時代の話ではある。だが、わざわざ随筆に残すくらいであるから、当時としても珍談であったのだろう。
ところで、扉に目印を付ける方法は、『千一夜物語』の「アリババと四十人の盗賊」に登場する、賢い奴隷モルジアナを想起させる。無論、ここでは単なる目印に過ぎず、アラビアン・ナイトのような複雑な展開はしない。ただ、手形に一の字を添えたのにどんな意味があったのか分からない。この和尚は、禅寺の住持であったから、あるいは一休宗純のように「一」を持つ名であったのだろうか。諸賢のご教示をいただきたい。(G)