(213)江戸の珍談・奇談(29)-1 20240527
24.05.27
東随舎『古今雑談思出草紙』(全10巻64条)には、古今諸国に亙る巷説奇談を収めてある。著者である東随舎は、江戸牛込に住んだ、小身の武家の隠居だったらしい。天保11年の自序があり、その頃成立したようであるが、版行されておらず、『日本随筆大成』(新版、第三期第4巻)に収録されることによって、初めて世に知られるようになった。
同大成「解題」(北川博邦執筆)によれば、「勧善懲悪・因果応報を説いた話が殆どすべてを占め、いかにも説教臭がつよすぎ、まま他書に見えたる話をも録しており、しかも行文にしまりがなく、話そのものもさして面白いものがない」とこき下ろしている。しかし、そんなにけなすほどでもない。隠居の思い出話を聞くようなつもりで読めば、それなりに楽しめる。まず手始めに、狐にまつわる奇談から紹介しよう。
元禄の頃、本所小梅村にある三囲(みめぐり)稲荷の社内に一匹の狐がいた。神社の傍らの茶屋にいた老婆に参詣人が菓子などを携えて神へのお供えを頼む時、この老婆が呼べば狐が姿を現す。外の人が呼んでも出て来ない。老婆が死ぬとその狐も現れず、名だけが残ったという。
これに類した以下のような話を東随舎は続ける。
安永の頃、橋場真崎稲荷の社の後ろにある神明宮に一匹の狐が住んでいた。茶屋を営んでいた三囲の老婆のような老女が、「お出で、お出で」と呼ぶと、どこからともなく姿を現した。参詣人は、この茶屋で菓子や団子を調えて狐に食わせる。真崎のお出で狐と有名になり、群れをなして人々が参詣していた。
この話を聞いて、仙台家の吉田節平という武士がこの神明宮に参詣し、老女に「狐を呼び出してもらいたい」と乞う。ところが、「このほどから狐はここにいない、故郷の仙台へ帰った」と老女が言う。「どうしてそんなことが分かるのか」と吉田が問い返す。すると、「14歳になる娘に狐が憑き、止むを得ない事情があって故郷の奥州に帰るが、長年世話になった礼として一首の歌を残そう、と狐が言うので、あり合わせの扇に歌を書き付けて去った」というのであった。この娘は目に一丁字もないのに、見事な筆跡だというから、「確かに狐は故郷へ戻ったのであろう、自分に扇を見せてくれ」と老女に頼む。取り出した扇は粗末な物だが、墨痕淋漓として「月は露つゆは草葉に宿かりてそれからここへ宮城野の原」と非凡な手跡で認めてある。歌の下の句の意味は分からないものの、珍品であるから、老女に金を与えて貰い受け、表具をして重宝していた。
ある時、仙台から出府して来た懇意の家中の者にこの一軸を披露したところ、由来を聞いた客の一人が、この歌には松島の瑞巌寺に関わる古伝があると教えてくれる。
昔、この寺に珍しい美童がいた。歌を詠む才に優れ、都の歌人にも劣らぬほどで、この道を深く極めようと心を砕いていた。折しも、秋の頃、名高い宮城野に遊び、萩の花の盛りを愛でているうち、夕月が山の端に顔を出し、露のない野路の萩の枝に照り映える。その景色に感じて、「月は露つゆは草葉に宿かりて」と上の句を詠み出したところが、下の句が一向に浮ばない。ひたすら考えているうち、ふと風邪を患ってしまう。次第に病勢が強まり、月の歌を詠み果たさず死んでしまう名残惜しさを今わの際までかき口説きつつ亡くなってしまった。その執念が宮城野の原に止まって、月が暗く雨がそぼ降る夜には、ものあわれな声で「月は露つゆは草葉に宿かりて」まで来ると、わっと叫ぶ。恐ろしさにその辺りを行き通う人もなくなった。
徳を積んだ智識と知られた雲居禅師がこれを聞いて、中空に迷っている亡魂を往生得脱させようとし、秋の野の草深い宮城野の原に到る。唯一人座して読経しているところに、ものあわれに叫ぶ声が次第に近づいて来る。すると、一塊の雲のような幻影の中から声がする。「月は露つゆは草葉に宿かりて」に続き、わっと叫ぶ。その塊が禅師の側近くに来て覆ってしまうが、禅師は両眼を閉じ泰然としている。幻影の発した上の句に対して、即座に「夫(それ)こそ是(これ)よ宮城野の原」と付けて払子を払い、一喝すると、雲霧の消えるように跡方なく失せてしまう。以後、怪異は絶えたが、後年、亡魂を鎮めるため一社を成して児の宮と称した。
狐はこの話を聞き知っていて、覚束ないまま扇に書いたのだろうと客は言う。事情を知った吉田は、その軸を益々家宝として珍重したという。 (G)