【コラム】狼の理屈は常に正しい
22.03.28
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『イソポのハブラス』は、天正18年―1590―、スペインの宣教師ヴァリニャーノによって日本に将来されたもので、本邦初の西洋文学の翻訳だという。現在、誰もが知るイソップの寓話である。その第一話「狼と、羊の譬への事」を以下に紹介しよう(訳文で示す)。
ある川端に狼も羊も水を飲んでいたところ、狼は川上に、羊の子は川べりにいたが、狼はこの羊を食べたいと思い、羊の側に近づいていきなり怒声を発する。
「お前はどうして水を濁らして俺の口を汚したのだ」
「僕は水際にいたから、川上を濁したりしないよ」
「お前の母が6か月前にも水を濁らしたのだから、どうしてもその罪をお前は遁れられないのだ」
「その時はまだ生まれていないもの、全然その罪は僕には当たらない」
「お前はまた俺の野山の草も食った。これは累犯なのだから、免れられはしないぞ」
「僕はまだ年の足らぬ幼児だから、草を食むこともまだできないんだ」
「お前はどうしてそうくだらない言い訳ばかりするのだ」
と、狼が大いに怒った。
「僕は一つも悪口を言ってないよ。ただ咎められる筋合いがないと言っただけさ」
その時、狼は「ええい、問答無用。そんなことはどうでもいい。ともかく俺は何が何でもお前を晩飯にするのだ」と言った。
この話の教訓として「道理を育てぬ悪人に対しては、善人の道理と、その謙(へりくだ)りも役に立たず、ただ権柄ばかりを用(もち)ようずる儀ぢや」と結んでいる。
17世紀の詩人、ラ・フォンテーヌの著した『寓話』にある「狼と小羊」(巻一の第一〇話)は、上記の話に基づいて改変を加えたものだが、大筋は変わらない。その教訓は、「最も強い者の理屈はつねにもっとも正しい」(鹿島茂『悪知恵のすすめ』)と、より簡潔な箴言となっていた。
狼は、あらゆる端緒を見出しては因縁をつけようと待ち構えている。もはやまともな理屈は通用しない。この種の難癖は独裁者の専売で、巻一の第六話「仔牛、山羊、羊と獅子」に登場する獅子の理屈も同様である。獅子は、他の三匹との共同事業によって得た動物の肉を一旦四分割しておきながら、「殿様」の資格、強者の権利を振りかざして独占してしまう。
絶対的な強者の権利の前には、民主主義も何も通用しないのである。
このような窮状を打開するには、独裁者の死か失脚を待つしかないと鹿島は悲観した。確かに、究極的にはそのとおりであろう。そのためには、狼や獅子に肉を与えないという兵糧攻めによってじわじわと追い詰めながら(隠れて肉を運び込む狐に注意しなければならないが)、狼や獅子の支配している動物たちの中から、独裁者を排除しようという動きが出て来ることを期待するしかあるまい。ただし、頭をすげ替えても、似たような者が再び現れたのでは元の木阿弥であるから、統治システム自体を変える必要がある。
鹿島によれば、フランスでは、ラ・フォンテーヌ『寓話』を学校の教材として用いているという。例えば、狐の甘言にまんまと乗せられて、口にくわえていたチーズ(イソップの寓話では肉)を鴉(からす)が奪われてしまうという、巻一の第二話「鴉と狐」を学んでいるから、「オレオレ詐欺」などに引っかかるような人はまずいない。騙される人間にだけはなるなという世間知を『寓話』によって植え付けられているからである。
祈っても願っても、平和は天から降ってくるわけではない。現実的で厳しい対処が必要だ。かの小羊の絶体絶命は、明日の我が身である。狼や獅子と正面から敵対するようになったら、もはやどうにもならない。そんな現実に直面しないうちに、危機をどう回避すればよいか。数度に亙る燕からの警告に全く耳を貸さずに身を滅ぼしてしまった小禽(ことり)の群れ(巻一の第八話「燕と小禽(ことり)」)にならないよう、今からでも遅くないから、燕の知見を真剣に学び、警告を謙虚に受け止めることであろう。
※ラ・フォンテーヌ『寓話』から引いた各話のタイトルは、市原豊太の訳による。
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