(202)江戸の珍談・奇談(26)-7 20210111
21.01.11
文化3年―1806―10月22日夜五つ半(9時頃)、ある傷害致死事件が起きた。
浅草三好町善兵衛店(たな)に住む辰五郎(28)が仕事場から帰ると、西の丸小十人組都筑金吾という者が辰五郎の妻かねを推し臥せていた。かねが助けを乞うて泣くため、理由は分からないまま理不尽なことと感じた辰五郎は、金吾を突きのけ、かねを逃がしてやった。ところが、金吾が抜刀し切りかかったため、辰五郎は直ちに刀をもぎ取り、金吾を殺害してしまった。
襲われた妻を助けた後、切りかかった相手を反対に切り殺してしまった辰五郎に下された判決は「死罪」であった。南町奉行所で起草した罪案書の一部が『一話一言』に抄録されており、「直ちに右刀をもぎ取り候ふ上は、取り計らひ方もこれ有るべき処、その儀なく、その刀にて金吾を殺害(せつがい)に及び候ふ始末、不届き至極に付き死罪」と記されている。
現在でも、過剰防衛による傷害致死となると、違法性を免れることはできず、有罪となる。ただ、その行為が防衛のためであったということは情状において考慮され、求刑よりは減刑が行われる可能性が高いらしい。
それにしても、傷害致死罪の法定刑は、「3年以上の有期懲役」つまり、3年以上20年以下の懲役となってしまう。
江戸時代では、人を殺害すると必ず死なねばならないことになっていたから、当然といえば当然なのだが、「死罪」とは、単に本人が死刑に処せられるばかりではない。付加刑といって、「闕所(けっしょ)」及び「様斬(ためしぎり)」が加わったのである。「闕所」とは田畑・家屋敷・家財の没収を指し、「様斬」とは、新刀の切れ味を試すために打ち首となった屍体が供されることをいう。「獄門」(死罪に晒し首が加わる)同様死んだ後にも恥辱が与えられることで、「見懲(みごらし)」と呼ばれる犯罪を予防する効果を狙ったものといわれている。現在の刑法は、明治以降フランス刑法に倣った懲役刑に基づき、犯罪事実よりも犯意に重きを置く主観主義的傾向が強い(石井良助『江戸の刑罰』中公新書)。つまり、威嚇や改悛を目的としたものではなくなった。
次に、自由刑の一種である「遠島(おんとう)」に処せられた寛政8年―1796―の事件を見よう。
吉田梅庵の家来榎本友次並びに中間(ちゅうげん)友平の両人が往来で上げていた凧が、尾張家の家来伊東金蔵の息三之助(24)の居宅の屋根から庭へ落ちかかった。その凧の尾によって屋根が破損したことが事件の発端となる。三之助の弟五之助が怒って表へ出るやいなや、凧を踏み破り、そこへ三之助も加勢した。一旦自宅へ帰ったが、友次と友平が破られた凧を塀越しに投げ入れ、声高に悪口雑言に及ぶ。この二人の怒りを鎮めて聞き入れない場合には、主人である梅庵方へ届けるよう、三之助らの父金蔵に申し付けたら何とでも取り計らう方法があったはずなのに、友次が突っかかってくる様子を見て三之助が抜刀し、友平が棒を肩に打ち掛けて来たため、五之助もまた刀を抜く。両人で友平を切り付けたところ、梅庵方の門内へ逃げ込んだ。なおも理不尽に門内まで追って来ると、勝手口から住居へ乱入し、奥庭で友平に対して数箇所の手傷を負わせた。左手中指・薬指を切り落とし、人差し指には屈伸ができない障害を与えた。
喧嘩による傷害事件といえばそれまでだが、三之助に科せられた刑罰は「右体狼藉の始末旁(かたがた)尾張家来忰(せがれ)の身分にては別して不届きにつき遠島」であった。八丈島・三宅島・新島のいずれかへ送られるのである。恩赦でもなければ帰って来られない。このように挑発に乗ってつまらぬ諍いを起こすと厳罰が待っていた。だから、ぐっと我慢するのが江戸の武士や町人に必要な処世術だったのである。なお、三之助の父金蔵(63)も喧嘩の仲裁を怠り監督不行き届きのため、「百日押込(おしこめ)」に処せられた。「押込」は要するに外出禁止である。 (G)