【コラム】小金牧とオランダ観音
20.03.23
延宝4年-1676-、4代将軍家綱の頃、小金上野牧に放たれたオランダから輸入されたペルシャ馬が射殺されるという事件があった。栗毛の馬で性格は獰猛、敏捷に奔逸し、多くの人々を傷害したため、牧士鈴木庄右衛門に命じて鉄砲で撃ったところ、馬は傷付きながら住み慣れた原の沢(現、流山市十太夫新田)に逃げ込み、そこの水を飲んで死んだという。
この小金上野牧とは、小金五牧(上野・高田台・印西・中野・下野)の一つで、江戸時代には軍用馬及び農耕馬として使役するための野生馬を放牧する広大な牧場であった。ここで野生の馬を捕え、良馬を江戸へ送ったのである。その名残を留めるのは、「千葉県指定史跡 小金中野牧の込跡」であり、新京成線北初富駅を降り、国道を新鎌ヶ谷方面へ向かって5分ほど歩くと、右手に碑が立つ。摺り鉢状にぐるりと築かれた土手を見ると、かつて野馬を追い込んで捕えた有り様を想像することができるであろう。
享保8年-1723-8 月17日、幕府代官小宮山杢之進(もくのしん)昌世(まさよ)が中野牧から下野牧の野馬を預けられ、同時にこの両牧付きの牧士支配に任ぜられた。この時既に小宮山によって金ケ作陣屋が設営されていたため、同じ小金牧でありながら、五牧のうち上記二牧が金ケ作陣屋、残る三牧(上野・高田台・印西)が野馬奉行綿貫氏という具合に分割支配されることとなった。その状態が寛政5年-1793-まで続き、その後小納戸頭取支配にかかる幕府直営牧となっている。
さて、野馬を捕込(とっこめ)に追い込んで捕える年中行事は、野馬奉行支配牧では10月中旬から11月初旬、金ケ作陣屋支配牧では6月中旬から7月上旬にかけて行われた。現在当地にその名残は全くないが、福島県相馬市で行われる相馬野馬追という祭りの中で行われる野馬懸(のまがけ)が往時を偲ばせてくれる。騎馬武者が裸馬を竹矢来に追い込んで捕えるという勇壮な行事であり、その起源が小金牧の捕馬にあるという。
享保17年-1732-、小宮山昌世から伊奈半左衛門へ管理引継ぎが行われた折に認められた「野馬一件覚書」によると、毎年三歳馬を捕えるのは、調教しやすく作物を食い荒らすことも少ないからだとある。捕えた三歳馬の中から良馬を選び、水戸街道の宿継(しゅくつぎ)を経て江戸の厩へと送った。残った馬の中から農民も農耕馬を競り落とすことが出来たのである。
寛永の頃、3代将軍家光を初めとして幕閣の乗馬 16疋を佐倉牧に放ったという記録がある。将軍家愛用の駿馬を小金牧に放つことは後年まで行われたが、加えて、外国産の輸入馬を小金・佐倉両牧に放つこともあったらしい。こうして馬匹の改良を試みようとしたものの、外国産の馬は大型で背が高く、日本人の体格に合わない。そのため、種馬として直ちに放牧場へ追いやられてしまった。ところが、輸入馬は何代にも亙って飼いならされた馬が多いから、放牧場へ放たれても野馬の生活になかなかなじめない。人里に現れては農耕地を荒らし、農民を殺傷するなど、狂暴化するものさえあったという。
冒頭の輸入馬もその内の一頭であった。土地の人々はこの馬の横死を哀れみ、馬頭観世音を祀って霊を慰めた。これがいつしか「オランダ観音」と呼ばれるようになったといわれる。流山おおたかの森に残る祠には新しい献花が供えられ、今もなお絶えない人の訪れを示していた。また、江戸川台には、8 代将軍吉宗が当地に放ったペルシャ馬を祀った「オランダ様」と称する馬頭観世音(元文 2 年-1737-建立)も祀られている。
参考文献:大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』(2009 年、岩田書院)、『松戸市史 近世編』(1978年、松戸市役所)