(167) 江戸の珍談・奇談(23)-4
17.03.26
『塩原多助一代記』が歌舞伎座で上演されたのは、明治25年1月であった。ところが、その上演に至るまでには、五代目菊五郎の承諾がなかなか得られなかったというのである。音羽屋が拒否する理由は理路整然として実に立派な内容だった。角川書店『三遊亭円朝全集』(昭和50年)の月報に寄せられた藤浦富太郎の「五代目尾上菊五郎と円朝作品」からその部分を引こう。
三遊の師匠の塩原多助は、登場人物の全部が師匠の舌端にかかって活躍する。どんな端役でも師匠が勤めるんだから、全部が全部師匠の魂がはいって、実にそつのない名演技をする。筋も素より結構なものですが、高座にかかるとそれが一段と本文以上の輝きを増す。これを芝居にたとえてごらんなさい、たとえば多助と道連れの小平は私がする、あとは原丹治でも丹三郎でも継母のおかめでも、登場人物全員がそれぞれ別々の俳優によって演ぜられる、中には上手な役者もあり、下手なのもいます、だから私一人一所懸命に多助と小平だけやっても、あとの連中が巧くやってくれなくては、完全な塩原の芝居にはなりません。(中略)円朝師匠の名作は天下の名器でいわば東山の御物にも等しいものです、そういう危い品物は下手な私はじめ役者たちがいじくるものではありません。おぼしめしはありがたいが、円朝の名作は噺で聴くと結構だが、芝居にすると存外つまらないという評判が立ったらそれこそ一大事、私たち一同大師匠に顔向けが出来ません。せっかくのお話ですが大名物は汚さないうちにお返しするほうが無事ですから、多助劇はご勘弁願います、どうぞあしからず。〈第5巻月報、8ページ〉
筆者藤浦富太郎の父三周は円朝一門を経済的に援助していた。孫である敦の代に至って「圓朝」の名跡を預り、三遊派宗家を名乗っている。
さて、多助劇の制作を一旦は固辞していた音羽屋だったが、三周の他、条野採菊・坂野積善を合わせて3名から強圧的に勧められ、しぶしぶ引き受けた。そうなると、今度は逆に音羽屋の方が積極的になる。元来凝り性だったこともあり、馬の小道具にやかましい注文を出して子道具担当を困らせた。多助と愛馬青との永別の演出は、この狂言のヤマ場であるから、動物が現実に涙をこぼすようにしたいというのである。
思案に余り、おずおず音羽屋に直接意見を伺うと、ただ馬が泣くように見えればそれでいい、瞼が閉じるようにしたらどうかと、案外容易な提案であった。安心した担当の藤浪は、張り子で堅く作られている馬の瞼を可動式にし、前肢に入っている役者が糸を引くと、カーテンが降りるように目玉が全部隠れる仕掛けを考案した。4・5回の試作を経てようやく音羽屋のオーケーが出る。それでも随分と早手回しであり、興行前年の秋の時分にはすでに出来上がっていたという。
さて、一本松馬の別れの場、「畜生ながら両の眼に、たまる涙を草の葉」という義太夫節に絡んで多助がさも悲しそうな演技をする。ここで青の両眼の瞼が大きな眼を蔽い、いかにも涙を流しているように見えるはずだった。だが、「照明の暗い舞台。動く馬の首、手拭いを鷲づかみにしてこまかい演技をする多助に妨げられて、前々から馬が泣く仕掛けを知っていたお客にもさっぱり判らなかったらしい」〈第6巻月報「多助の馬が泣いた話」8ページ〉という、大した効果も評判もなく終わってしまったのであった。
前回紹介したとおり、円朝から演技指導を受けたにせよ、音羽屋の名演技なら特別な仕掛けを用いなくても十分に馬も泣いてくれたし、観客も泣いてくれたはずである。いや、これは、むしろ名優をしてそこまで考えさせずにおかなかった円朝作品の優れた芸術性を物語る逸話だと言っていいかもしれない。