(157) 江戸の珍談・奇談(22)-5
16.07.13
40年以前、「それは秘密です!!」というテレビ番組が日本テレビ系列局で放送されていた。ヒューマンバラエティー番組と銘打ち、番組ラストのコーナーでは視聴者が長年探し求めていた肉親や兄弟姉妹と再会するという趣向である。再会した者同士が感涙にむせぶのはいうまでもなく、司会を務めた桂小金治やクイズ解答者ももらい泣きしていた場面を今でも思い出す。その後、同趣の番組あるいは企画が忘れた頃に登場し、決して絶えることがない。
通信媒体の乏しい江戸時代にあって、人探しには知人を頼って手紙を利用するか自らの足を使うしかなかった。烈婦登波の条に紹介したとおり艱難辛苦の連続である。それだけに、再会の感動は一入深かったろうし、そんないい話を聞いた者が聞き捨てにしたはずはなかろうと思われる。『兎園小説』も、当然こうした奇談を逸したりはしない。
馬琴の息琴嶺が年来恩顧を蒙る某侯の国足軽に山本郷右衛門という者がある。寛政4年-1792-4月、飛脚を承り江戸へ至り、再び奥州へ帰る折、奥州街道鍋掛の駅はずれにある坂道の途中に、国巡りの親子二人がいた。父は最近この辺りでひどく病み、命が危ういので、駅の者どもが憐れみ、二人のために粗末な小屋を建てて、しばらくそこへ置いてやったのである。
そして、その娘が往来の旅人に物乞いをしていた。郷右衛門は、その姿を見て殊に不憫に思われたから、懐を探って一片の南鐐(なんりょう=二朱銀、8枚で金1両に相当)に持ち合わせていた薬を添え、楊枝挿しの袋に入れて与えた。その後5年ほど経て、郷右衛門は再び飛脚の命を受けて江戸の藩邸へやって来た。
逗留する間、朋輩に誘われて新吉原江戸町にある丸海老屋と呼ばれた青楼に登ったところ、深更に及び、楼の若い者が高坏に菓子を積んで郷右衛門の所へ運んでくる。これは清花様から差し上げなさる物だと言うのだが、その名に覚えのない郷右衛門は人違いだと答える。だが、お目にかかりたいので、こちらへと言われ、訝しいまま引かれてその部屋に赴いた。その女を見ても、知った遊女ではない。
ところが、郷右衛門を認めるや否や、清花は臥し沈んで忍び音に泣くばかりである。しばらくして頭をもたげ、「絶えて久しくなりました。あなた様には恙無く、お目にかかれてうれしゅうございます」と言う。なおも合点がいかない郷右衛門が誰何し、見忘れたのか、私はしらないと答えると、清花は楊枝挿しの袋を取り出し、私をお見忘れでも、この袋には見覚えがあるでしょう、とさらに言う。郷右衛門はまだ気づかない。
そこで、清花は楊枝挿しの由来を語り始めると、聞き終わるまでもなく、郷右衛門は初めて悟った。あなた様には隠す必要もないからと、遊里に身を沈めることになった経緯を清花は涙ながらに説き示す。清花の郷里は越後高田であった。母を病に亡くして後、旱魃や水害などの禍によって世をはかなんだ父は、自分を連れて、亡き妻の菩提を弔うため、諸国遍歴の旅に出た。偶々鍋掛の駅に病んだ父にお恵みをくださったのがあなた様で、父に見せると、これほど慈悲のある人は希であるから、よく顔を覚えておいて、巡り合う日があったら必ずお礼を申し上げろ、と繰り返し言っていた。
いただいた薬を用いたものの、定業は逃れがたく、幾日も経たず父は亡くなった。自分は見知らぬ人の手にあちこちと渡り、とうとう里の遊女となったのである。本の名をそよと言い、あなた様に会った時14歳であったが、苦界に堕ちてはや18歳になる。
今夜は父の命日だから、客を迎えず回向をしながら籠っていたところへ、偶然にも恩人に遭遇したのは、亡き父の志に違いない、と言ってはよよと泣き崩れた。〈『兎園小説』206~207ページ〉
それから、文化2年-1805-になって年季の満ちた清花は、河崎屋平八という者の宿所に移る。平八は、乳母奉公の口入れ(=斡旋)をしていたため、郷右衛門の仕える藩邸にも出入りしていた。浮草の根を絶えてよるべのない境遇であるという清花の消息を聞き、一度慰めに訪れたが、その後の消息は分らないままになってしまったという。