(129) 江戸の珍談・奇談(13)―5
15.02.16
鶯は宮中のような高貴な場所には訪れない。『枕草子』の作者清少納言はそう言っている。宮中で鳴かないと言われてから十年ほど宮仕えを経ても、やはり一向に聞こえなかった。だが、一方でみすぼらしい家の何の見どころもない梅の木にはうるさいくらい鳴くと言って、少々癇癪を起している。
梅に鶯という取合せがいつから始まったか知らない。花札のような典型が人間の身勝手によって野生動物に通用すると思ったら大きな間違いだ。第一、花札にあるような梅の枝にとまる鳥は本来メジロだともいうではないか。
穂積氏の老母昌貞尼は、京の高台寺に隠居していた。風流心が世に勝れ、文人墨客が門に満ちている。前庭を柴の生えたまま置き、世人は「取り残しの柴」と呼んだ。蝶の来るのを待つのである。その庭園に毎日鶯が訪れるのを喜び、梅がなくてはならぬと言って、洛東に求めたけれども、思い通りの古木が見つからない。ようやく嵯峨に老いた巨木を探し当て、多額の費用を投じて庭園に移植したところ、梅を植えたその日から鶯は来ずじまいになってしまった。〈『雲萍雑志』巻之一、『名家随筆集 下』123ページ〉
伊勢神宮の祭主を勤めた大中臣輔親は、天橋立を模して池の中島に小松を植え並べるなど、邸の庭に数奇を凝らした風流人であった。ある初春のことである。毎日決まった時にやって来てさえずる鶯を愛で、当代の歌人を誘う。宿直の伊勢武者には音を立てて鶯を逃がさないよう言いつけておいた。人々は鶯の声を今や遅しと待つが、一向に鳴き声が聞こえない。そこで、輔親が武者を呼び出して事情を問うと、ご命令通り逃がさないように射落して枝に結び付けてあると言って、得意げに見せる。風流を解さない興ざめな田舎武士の愚行には一同言葉を失った。
『十訓抄』〈七ノ三十〉にある話である。昌貞尼は、腕づくで鶯を捕えようとはしなかったものの、梅の古木に誘導してとまらせようとした。風流心があるようで欠けている点では伊勢武者と何ら変わりがない。
『雲萍雑志』には、茶道を題材にした話がしばしば登場する。当時の風流人といえば、茶人にまず指を屈したのであろう。
茶道を好む者が、他流派の手前をも弁え知らず、自分の学んだ流儀だけを心得、これこそわが流派になくてはならぬ品だと、無益な茶器を高額で求めて飾っておくのは、古道具屋に等しい。見るも煩わしいだけだ。利休居士も「高額の器物を愛玩するのは、心が利欲に走っているためだ。欠けた擂鉢だって一時の間に合う物とするのが茶道の本意である」と言っている。「数奇屋咄」という書にもこんな話がある。主人が住居と道具を自負し、客に頼んで言うには、「私の好む数奇屋の中で、何でもかまわないから、無粋な物があれば、仰せに従って省くつもりです。少しも遠慮されず、言ってください」と自慢げに言ったので、客は阿諛することのない人だったから、「家といい器といい、行き届かない物はありませんが、ただこの中でそなたお一人なかったなら、風流雅境これに過ぎたことはありますまい」と言った。〈同巻之二、155ページ〉
作者が「こはいとおもしろき諷諫なり」と結んだとおり、風流人を自認する者に対する痛烈な皮肉である。主人が不要だと言ったのは、これ見よがしに置かれた器物に風流はないと暗に当てこすったのに相違ない。本当の風流は、具眼の士にだけ察知してもらえばよいのだ。
藪内紹智(やぶのうちじょうち)がかつて士明(しめい)という名高い香炉を手に入れていた。朗干(ろうかん)法師が訪れた際、それを火活けとして出した。朗干師は撫でたりさすったりして香炉のすばらしさを褒めちぎる。ある時、再び来訪した朗干師が香炉をつくづくと見て、これほどの名器をなぜ火活けなんかに使っているのか、と問うと、紹智は笑って、「この器は火活けとして使っておりますから、貴僧の目に付いて惜しまれたのでございます。香炉として床の間に置いたら、それほどには思って下さらないでしょうに」と言った。〈同巻之三、180ページ〉
藪内紹智は、織豊時代から江戸時代初期に活躍した者を初代とする茶道の師匠の名で、ここは何代目か不明。話中、朗干法師がわざわざ手に取って見るに違いない火活けとして香炉を用いていた。朗干が本物の風流人なら、床の間にあろうと香炉の価値に気付くはずだ。紹智には人を試そうという底意が見え透く。ただし、この話の結びは「この詞、人のうへにも通ひて、いとおもしろし」としている。さらに人世への省察を促そうというのだから、風流と人心との関係からは外れよう。ともあれ、作者は、形ばかりを繕う似非(えせ)風流人を嫌い、事あるごとにこうして批判の矛先を向けるのである。