(122) 江戸の珍談・奇談(12)-1
14.10.11
西郷隆盛の犬好きは有名である。周知のとおり、犬といっても単なるペットではなく、兎狩りに使った猟犬だ。仁科邦男『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(2014年7月、草思社)では、西郷の犬に関して一章を設け、各種の資料を博捜している。中でも、池田米男編『南洲先生新逸話集』に採られた次の話は、西郷と犬の関わりを端的に物語るばかりでなく、西郷のひととなりまで彷彿するように思う。
以下、祇園花街の名妓君尾の談として紹介された逸話を引こう。
明治の御一新前、京都は諸藩の勤皇志士が屯(たむろ)して、夜な夜な紅灯花街の巷(ちまた)に出入りし、鋭気を養われました。多数の粋人も居られ、中にも木戸様(=木戸孝允)の御愛妓は有名なお松さんで、後(の)ちは夫人にご出世なさいました。大久保様(=利通)にも御愛妓がいました。西郷様の愛妓は風変わりのお愛犬二疋でした。西郷様はよく愛犬とともに御入来になって、鰻の蒲焼を犬の分まで御注文をして愉快相(そう)に愛犬とご一所にこれを食われ、犬の頭を撫でられたりして、四方山(よもやま)のお話に興じて帰られました。妾(わた)しは西郷様こそ、粋人中の粋人様と思いました。色や恋などという方は、ほんとうの粋人ではありませぬと…〈同書220ページ〉
記者は、これを「流石(さすが)は京都の名老妓の真粋を解した哲言ではある」と評している。犬を傍らに座らせて一緒に鰻を食うだけで、商売であるはずの芸妓の方には金を落としてくれないことが「粋人」かどうかについては意見が分かれるだろう。だが、西郷が犬を人並みに扱ったことだけは窺い知られる。
西郷は、西南戦争のさなかにあっても犬を連れて狩に出ていた。だが、敗色濃い明治10年8月16日、解軍の布告を出した後、陸軍大将の軍服を焼くと、陣中に連れて来た犬もそこでついに手放してしまう。そのうちの一頭は、西郷が貰い受ける前の飼い主の許へ200キロの道のりを38日かけて戻ったという(同書252ページ)。
犬という動物は、表面上は主従であるが、むしろ主人とは相互に信頼し助け合う関係を作るようである。
明治6年4月、「畜犬規則」なる法律が東京府から布達され、名札を付けない犬は邏卒(=今の巡査)がその場で打ち殺しても構わないこととなった。ここで飼い犬と野犬とが区別されるようになる。それまでは犬といえば里犬のことを指し、飼い主の定まらない多くの犬が町中をうろついていたのである。だが、道にねそべっている犬でも、町や村の縄張りに侵入する外敵があれば、猛烈に吠えて威嚇した。特定の飼い主がないことは、逆に言えば誰の犬でもあり得たのであった。
次に紹介するのは、人と里犬との相互扶助関係がまだ残っていた時代の佳話である。
名札を付けていなければ殺されるとあって、里犬に名札を付けてやったところ、それが伊勢参りまでして帰ってきたという、仁科の同書に引かれた新聞記事を紹介しよう。
犬の伊勢宮に参る事は古くより多くいい伝えたるが、この頃聞きしは最(いと)珍しきものというべし。東京新泉町(=新和泉町)七番地に古道具屋渡世、角田嘉七という者あり。去る九月中、府令ありて、無主の犬は打殺さるる事有りし頃、嘉七が家の前に一頭の白犬来たりしを見てあわれに思い、己が名と町名を書きたる札をかの白犬の頸に付けやりしが、その後何人(なんぴと)か連れ行きけん、東海道の駅に出たるが、伊勢参宮の犬なりという者有しに、人々珍しき事におもいて、銭を与え首に結び付けしかば、次第に銭多く成りしを以て之を金にかえ、好事のもの更に一冊の帳面を作り、白犬参宮の由を記し、施与(ほどこし)の金をつけて宿々に継ぎ送る。是を奇とする者、銭を与え、宿賃食料を取らずして、人を付け、件(くだん)の帳面を持し、是を送りしかば、桑名の渡しは更なり、その余、山川滞る所なく行き過ぎ、十一月九日、終(つい)に神宮に至りしかば、神宮の人々大いに奇とし、即ち神前に拝せしめ、途中にて施されし金銭を以て神宮に献じ、大麻(=御礼)を受け、剣先御祓(おはらい)三十二枚を授くるもあり。又一書を付けて参宮終りし由を記し、帰路におもむかしむ。〈明治7年12月18日横浜毎日新聞による-同書196ページ〉
犬の伊勢参宮は江戸時代からしばしばあった。松浦静山も本居内遠もそうした犬を目撃している(同書197ページ)。
さて、この犬、三重県度会郡に至ると、恵比須・大黒の像四体を与えられたが、土地の者が新泉町を知らなかったため、埼玉県熊谷にまで送られてしまう。ところがそこに名札の角田がいるはずがなく、東京だということになり、宿場を順次送り継いで12月13日にようやく古道具屋へ帰着した。この時犬が持って来た行李(こうり)には例の像を始め、様々な施し物とともに金六円余りもあったというから驚く(同書198ページ)。
いい時代だった。こんな醇風美俗がいつの頃からか失われて久しい。