(118) 江戸の珍談・奇談(9)-1
14.08.23
本エッセイ「江戸の珍談・奇談」の(3)と(4)に取り上げた『当世武野俗談』は、馬場文耕(享保3年-1718-~ 宝暦8年-1759-)という講釈師の作品である。他にも『近世江都著聞集』が『燕石十種』に収められている。いずれも、当世見聞した逸話を集めた実録小説で、大名や幕臣の艶聞・醜聞を取り上げるなど、きわどい内容を含むため、「世に容れられない不満を皮肉と諷刺の中に吐きだして、どの書にもちくちくと人を刺す毒が仕込まれていた」(諏訪春雄『出版事始―江戸の本』昭和53年、毎日新聞社)とも評される。
馬場は、「政事物」と呼ばれる時事問題を講釈したり作物としたりしていたため、普段から幕府に目を付けられていたのだろう。宝暦8年-1758-9月、江戸日本橋榑正(くれまさ)町小間物屋文蔵方で講釈し、高座を下りたところを遂に逮捕された。
その頃幕府で審議中の案件であった郡上(ぐじょう)一揆の経緯を高座で述べ、仮想の判決まで下したばかりでなく、さらに小冊子を編んで『平仮名森の雫』と題し、景品として頒布したというのが、その罪状である。どうやら幕政批判と受け取られたらしい。
幕府側は、この一件だけで逮捕に踏み切ったわけでもなさそうだ。馬場は『近世江都著聞集』などの中で、平気な顔をして徳川将軍に触れている。これは、当時れっきとした犯罪行為に当たり、享保7年-1722-に発布された出版取締令(「御条目」と呼ばれる)第5条にはこうある。
「権現様の御儀は勿論、惣(すべ)て御当家の御事、板行・書き本、自今無用に仕るべく候ふ。拠(よんどころ)無き子細もこれあらば、奉行所に訴え出、差図(さしず)請け申すべく候ふ事」(前掲、『出版事始-江戸の本』164ページ。ただし、適宜送り仮名を付した)
要するに、徳川家のことを筆にするだけで禁に触れるように解釈できる。例えば、元禄11年-1698-の春、江戸書肆鱗形屋から『太閤記』7巻を刊行したところ、その年8月、南町奉行松前伊豆守により絶版を命ぜられた。この事件に対して、宮武外骨は、「徳川家康が譎作(詐)権謀(けっさけんぼう)を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏にも、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり」と舌鋒鋭く非難している(『筆禍史』(明治44年初版、大正15年改訂増補版39ページ)。
どこからでも責める糸口を見出すのが為政者のやり方である。合巻の最高傑作とされる柳亭種彦『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(文政12年-1829-~天保13年-1842-)も、いわれのない理由によって絶版の憂き目に遭った。舞台を平安朝から足利将軍の東山御所に移し、光源氏に準えられた足利光氏が好色に耽るとみせかけながら将軍家のお家騒動を見事に解決するという話である。ところが、これが数十人の妻妾を養っていた11代将軍家斉の大奥を諷刺しているという噂が流れるや、奢侈禁止、風俗粛清を唱えた天保の改革を推進する水野忠邦らによって、取締りの対象となったのである(前掲『出版事始-江戸の本』)。無論板木は没収とされたが、版元の鶴屋喜右衛門は、手許不如意のため質入れしていた板木をやっとの思いで受け出して奉行所に提出したという。加えて、著者である種彦はこの事件の衝撃によって病勢が悪化し、吟味を受けた年に病没した。
禁書を作成しただけのことなら、重くても遠島程度で済んだはずだが、馬場文耕はその口舌が災いし、奉行所でも役人を論難したため、同年12月25日、哀れにも浅草刑場の露と消えてしまった。