(117) 江戸の珍談・奇談(8)-3
14.08.03
忠臣尾崎富右衛門の逸話はまだ続く。尾崎は、榊原家の娘が南部大膳大夫利雄(としかつ)に輿入れした際の付き人となり、南部藩に留守居役(=幕府と自藩との連絡調整役)として抱えられた。
堀田相模守正亮(まさすけ)が老中を勤めていた時分、南部家から何か所望したらしい。その望みはとうとう叶わなかったのだが、その間献上物を呈し続けていた。数年来老中が献上物を閲していたのに、ある年、老中が多用だと言って、奏者番へ回して済ませた。翌年も同じ状態であったため、尾崎はこのままでは家格にかかわると思い、こう申し出る。先代から老中に目を通していただいていたにもかかわらず、昨年、一昨年と老中多用のためとはどういうことか、どうしても老中に閲してもらいたい、と言うと、奏者番が取り扱うのは老中からの指図だとの一点張りだ。老中が忙しいと言うのなら、お手すきの折に指図を待って献上することにしよう、と言い捨て、尾崎は献上物を持ち返ってしまう。当然、陪臣の身として違背の言葉が甚だしい、厳重な処分を、と老中による評定が行われる。そこで、老中連の末座にあった西尾隠岐守忠尚(ただなお)が異議を唱えた。尾崎への御咎めは不当である。臣下たる者、おのが主人を大切に思うのは当たり前だ。主君のために身命を賭していささかも厭わないのが忠義というものだろう。もしこの者に御咎めを仰せつけたなら、今後陪臣も御家人も忠義に励む者はいなくなる。今一度の詮議を求めたい、と主張したのである。老中連はその意見を受け入れ、違背の言葉は不埒であるが忠心に免じて幕府から処分は言い渡さない、当家の処分に従え、献上物は旧に復して老中が目を通す、と処断した。〈同書、183ページ〉
南部家では、尾崎を一旦国元へ返し、一両年経て再び江戸へ呼び戻した。
だが、尾崎は主君に恵まれない。黒田家(=筑前守継高(つぐたか))から婚姻の申し出があった時、奥方の付添いの女の中に、南部の殿様の心に叶う者があったため、召し使いたい旨申し入れたところ、その女の母が永の暇を申し出て、娘を呼び戻してしまった。馬鹿にされたと立腹した南部の殿様、何を思ったか、京橋辺で町芸者をしている女を召し抱え、正妻同様に扱った。尾崎は頭が痛い。病気療養のための湯治を偽って願い出、密かに重役と相談する。その結果、殿様は国元に隠居、その跡は別家の舎弟に譲ることを取り決めた。
因みにこの殿様は、南部信濃守利謹(としのり)といい、上記の不行跡によって廃嫡されている。ただ、利謹は文武両道で覇気のある人物であり、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱いていた。ところが、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、廃嫡の憂き目に遭ったともいわれる。
いずれにしても、放埓に近い殿様の所行を上手に治めた功績によって、300石加増しようとしたが、尾崎は、お家大事と存じて行ったことながら、もったいなくも御主君に難儀をおかけしてしまった、禄は先代から続いて300石頂いているから十分である、と受け付けない。なおも妻を娶って血筋を遺すように勧めても拒絶する。母が不心得者で、嫁を貰っても意に染まなければ不孝になるばかりだと言う。それなら、別宅に妾を置けばよいと言っても、何分御免を蒙ると首を振るばかり。果てには、養子を迎え、自分は隠居してしまう。殿様から隠居生活のために15人扶持を与えようとしても、即座に辞退してしまった。困った家老に説得されてようやく受け取ることにしたが、その扶持はそっくり母へ渡し、自分は母からのあてがい扶持によって暮らしていた。母の死後は国元へ帰り、ご先祖代々の墓掃除役をしたいと数度に亙って願い出たものの、聞き入れられず、江戸屋敷で隠棲していたという。
「君君たらずといふとも、臣もって臣たらずんばあるべからず」〈古文孝経・孔安国序〉を身を持って示した潔い生き方である。江戸も中期に入り、官僚と化しつつあった武士のあるべき精神を覚醒させるに十分であったろう。