短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(116) 『うつほ物語』の源実忠と真砂子君

14.07.28

『うつほ物語』の源実忠は、源正頼の娘・あて宮(実忠のいとこ)に懸想してからというもの、長年契った妻と二人の子を棄て、何年も正頼邸に泊まりこみます(菊の宴巻)。あて宮を知る前は、実忠と北の方は仲睦まじく、「この世にはさらにもいはず、行く末にも、草、木、鳥、獣となるとも、友だちとこそならめ」――来世、どのように身に生まれ変わっても友だちになろう、と約束していたそうで、以前ご紹介した源仲頼とそっくりです。

とうとう実忠は、三條堀川の北の方が待つ家には帰らなくなり、家は荒れ果てますが、それでも北の方と二人の子は、実忠の帰りを待ち続けます。特に、息子の真砂子君は父を恋い慕っていました。その真砂子君に対して、実忠は「真砂子は数知らむ時にや」(浜の真砂を数えつくした時に帰る)と言ってよこしました。砂浜の砂をどうやって数え尽くせと言うのでしょう。つまり、もう戻ってこないということでしょう。

真砂子君は父・実忠を恋い慕いながら、十三歳で亡くなります。昔は、遊んでいて、ちょっと父のそばを離れただけでも心配してくれたのに…。真砂子君は父が可愛がってくれた時のことばかりが思い出され、食事もとらないで嘆き続けた結果、「つひに父君を恋ひつつ亡くなりたまひぬ」――衰弱死したのでした。

真砂子君が亡くなったとも知らず、あて宮との恋愛成就祈願のため、比叡山東麓の日吉神社に参詣した実忠は、偶然、同じ比叡で北の方が営む真砂子君の四十九日の法要に出くわします。「源宰相(実忠)、驚きて泣き惑ひ、臥しまろびたまへどかひなし」、実忠は息子の死を悲しみますが、あて宮への気持ちのほうが大きかったので、北の方のもとに戻ることはありませんでした。

さて、その後、北の方と娘・袖君は俗世間を逃れて「志賀の山もと」に居を移します。実忠は、まだあて宮のことが諦めきれず、奈良の七大寺をはじめ、菩提寺や比叡の延暦寺、高雄の神護寺に出かけ祈願します。比叡山の根本中堂で七日間加持の潔斎をした実忠は、これまた志賀の山寺に参籠していた藤原仲忠と比叡の辻で行き合い、偶然それとは気づかずに北の方の隠れ家を訪れます。でも、実忠は北の方の住まいだと最後まで気づきませんでした。いい大人が、人を好きになったら、妻子のことなどどうでもよくなり、自分の願いを成就させることしか考えなくなる――人間は、どこまでも愚かです。

幼子が親に見捨てられ衰弱死するという悲劇は、現代でも繰り返されています。真砂子君の「父君(ててき)」と父を求める姿は、ろくな食事も与えられず放置され亡くなった男の子が、最後まで「パパ、パパ」とか細い声で父を求めたという姿に重なります。

父が帰ってくるのをひたすら待ち、永遠に数え終わることのない真砂を数え続ける絶望の歌ではなく、なぜ希望の数え歌が衰弱死した子らに響かなかったのか、無念でなりません。

(し)
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