(109) 江戸の珍談・奇談(6)
14.05.04
先日、某市の職員が副業によって多額の副収入を得ていたことが報じられた。某市の給与水準は全国一だという。にもかかわらず、というのはひがみかもしれないが、不正でも副業が行えるほど職場での仕事に時間的余裕があったことは明白だ。
世に没義道な悪吏の種は絶えない。人の世であるかぎり、廓清は不可能であるかもしれない。
江戸時代といえば、時代劇に登場する遠山の金さんや大岡越前のような名奉行を思い浮かべるであろう。一方、悪徳商人から袖の下を受け取っては便宜を図ってやる悪代官というイメージもあるかもしれない。だが、ここに紹介する奉行は、むしろ職務に厳格を極めたため、却って逸脱してしまった例である。
盗賊奉行山川安左衛門は、般若面の源七、鬼の子の儀兵衛という悪者を目明しとして使っていた。この両人のために江戸中どれだけ迷惑したかしれない。少しでも挙動不審を示す者、ぽっと出の田舎者などを捕えて牢舎に繋ぐ。さらに拷問にかけて、無理やり放火犯に仕立ててしまう。こうして仕置きされる者が、月に16、7人に及んだ。
照りふり町の一隅に数珠屋があった。上総出身の者を雇い、小網町へ使いに出したところ、山川の目明しに捕えられた。上京間もない時期であるから、要領を得ない。怪しまれて牢へ入れられた上、拷問による苦しさの余り放火を白状してしまう。
日本橋で晒し者になると聞き、数珠屋が確かめに行くと、盗みの目的で火付けをしたとある。ところが、上総から上京した月と制札の月とが食い違っていた。2月に江戸へ出たばかりなのに、火付けは去年の5月とある。これでは余り可哀そうだと思い、直ちに町奉行所へ訴え出た。犯行の月にはまだ上京していないはずだからと、再度の吟味を願い出る。すると仕置きは日延べとし、翌日の詮議となった。
数珠屋は縷々事情を述べ、上総にいる両親を呼び出して問うてくれと訴える。そこで、件の下男を再度事情聴取したところ、放火の覚えは全くないが、拷問を加える役人が、苦しかったら火を付けたと言え、と言うので、余り辛いから自白したと申し立てた。
これによって、儀兵衛及び源七は召し取られて磔に処せられ、山川も不首尾として奉行解任となった。〈『江戸真砂六十帖広本』巻之五、『燕石十種』第4巻74ページ〉
山川のやり方も、治安維持を厳重に行おうとしたためであろうが、行き過ぎはやはりよくない。同じく盗賊奉行にあった赤井七郎兵衛も、職務に忠実であろうとした。
赤井七郎兵衛は、盗賊奉行として博奕打ちを特別厳しく取り締まった。磨屋の勘兵衛という勝負師、博奕組合の名代を務める者などを残らず召し取り、千住で磔に処したことがある。勘兵衛は馬に乗りながら、赤井に対して悪口雑言を浴びせ、これまで博奕打ちにこんな仕置きをする掟はない、と千住までの道中、罵り通しだったという。さすがに前例のない厳しい処置であったため、不首尾として御役を召し上げられてしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の五、同第1巻154ページ〉
余りに厳し過ぎれば、抑圧された民衆の怒りは爆発する。
藤掛民部は盗賊方改を二度勤めた奉行であるが、厳格に過ぎて江戸中の者が難儀していた。御役御免となると同時に、誰が知らせるというわけでもなく、町々から人々が藤掛の所へ押し寄せた。その数およそ四・五百人。藤掛に対する悪口を発し、瓦や石を投げ付け、表門を打ち破り、玄関の戸障子も破壊したのだった。邸に居合せた藤掛は、この有様を見て、門から中へ入れば斬るぞと待ち構える。群衆は石を投げ、悪口を浴びせるだけで、中へは突入しないでいる。侍どもは恐れて群衆に立ち向かおうとしない。
この騒動により、奉行所から捕り手が駆け付け、首謀者二・三人を捕えて遠島に処した。前代未聞の事件である。〈『江戸真砂六十帖広本』巻之七、同第4巻82ページ〉
白州(=奉行所のお裁きの場)で、こちらがいくら無実であっても、吟味役など公辺の非を難じたりしただけで所払い(=追放)となった時代である。投石に器物損壊、それに名誉棄損を加えて島流しなら、江戸時代にしては軽い方だ。