(105) 夢で逢える
14.03.26
『うつほ物語』楼の上・下巻で、俊蔭の娘は七夕に波斯風の琴を弾きます。波斯風の琴とは、父の俊蔭が亡くなる時、「幸ひあらば、その幸極めむとき、禍極まる身ならば、その禍限りになりて、命極まり、また、虎狼熊獣にまじりて、さすらへて、獣に身を施しつべくおぼえ、もしは伴の兵に身をあたへぬべく、もしは世の中に、いみじき目見たまひぬべからむときに、この琴をばかき鳴らしたまへ」――極限状態に置かれた時に弾きなさいと言って授けてくれた、大切な形見の琴です。波斯風の琴は俊蔭一族の危機を救い、一族に幸福をもたらしてくれるといった役割があります。
さて、俊蔭の娘が波斯風の琴を弾いた時に奇跡が起きたことは、以前「『うつほ物語』の七夕」でお話しいたしましたが、それに引き続き、仲忠が俊蔭の遺文(漢詩)を誦しています。なんとこの後、俊蔭が俊蔭の娘の夢に登場します。
大将もうち臥したまひ、尚侍の殿も、琴に手をうちかけて、いささか寝入りたまふともなきほどに、見たまふやう、「むかしのものの声の、さもあはれにめづらしく聞きはべりつるかな。大将も、御楽の声も、あはれに愛しうなむ。…」と、治部卿の御声なり。[新編日本古典文学全集③553頁]
俊蔭の娘や仲忠の演奏が心に深く染み入って面白い、と俊蔭は言います。俊蔭の娘は俊蔭が亡くなってからというもの、せめて夢の中だけでも会いたいと思ってきて、全く姿を現してくださらなかったのがようやく夢に出てきてくれた、と泣きました。
俊蔭が亡くなってから30年以上過ぎている計算になります。それに、俊蔭の死後、仲忠が生まれていますから、俊蔭と仲忠は直接会ったことは一度もありません。つまり、亡くなった後も、俊蔭の娘のことを見守り続けていたからこそ、仲忠のことを話題に出せたということになります。
ここで思い起こされるのが、『源氏物語』の夢です。光源氏が須磨で暴風雨や雷に見舞われた時、夢の中に父である故桐壺院が現れ、「などかくあやしき所にはものするぞ」と源氏の手を取り引き立て、「住吉の神の導きたまふままに」「はや舟出して、この浦を去りね」と告げます(明石巻)。この後、源氏は明石に導かれ、明石の君と出会って娘を儲けたり、政界復帰を果たすことになるので、桐壺院は息子の光源氏が心配で夢という形を借りて現れ、須磨をはやく去るように助言し、源氏を助けたと考えられます。やはり死後も、源氏を見守っていたことになります。
生前、桐壺院は、光源氏と藤壺の密通を知らなかったのではないかと言われています。自分の妃である藤壺と息子の源氏が密通したことを咎めたり、悩んだりする場面が物語には描かれていないからです。死者にはすべてを見通す力があると考えたくなりますが、桐壺院は死後も密通の事実を知ることはなかったのでしょうか。知っていてそれでも息子を助けるべく姿を現したのか、生前のことまでは見透かせないまま姿を現したのかは、物語からはよく分かりません。
さて、藤壺も死後、光源氏の夢に登場します。光源氏が紫の上に藤壺、朧月夜、明石の君といった女性たちの批評をした直後、藤壺が光源氏の夢枕に立ち、「いみじく恨みたまへる御気色」で「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」(朝顔巻)と恨み言を言いました。紫の上の前で、自分のことを話題に出した光源氏を藤壺は恨めしく思い、成仏できずに彷徨いでてきたのです。
物語に描かれる夢は不思議です。故人が現れ残された者を助けたり、諭したり、非難したりします。現代人は、嘘だと分かっていても、家族が亡くなった時、向こうの世界で先に逝った家族と再会し、仲良く過ごしているのだろうと思うことがあります。でも、『源氏物語』では、死後、桐壺院と桐壺更衣、あるいは桐壺院と藤壺が「おなじ蓮」に住み、仲良く過ごしているといった夢は描かれません。それぞれ単独で登場し、光源氏に語りかけるところが興味深いですね。