(104) 江戸の珍談・奇談(3)
14.03.15
世に金持ちというだけで妬み嫉まれるのに、守銭奴となると憎悪の対象にしかならない。ダンテ『神曲』では、金貸しは神への冒瀆と同罪として扱われるほど重い地獄に位置づけられている。『ヴェニスの商人』や『金色夜叉』に見られるとおり、戯曲や小説では悪役として描かれることが多く、どうも良い印象は持ちにくい。
江戸時代の人々も、当然のことながら悪徳金融業者に対しては同様の受け止め方をしていた。『当世武野俗談』(馬場文耕編、『燕石十種』第4巻)からその一話を拾って紹介しよう。
下谷三崎町に車婆々(くるまばば)と呼ばれる高利貸しがいた。出自は決して卑しくなく、御徒士(おかち)として70俵5人扶持を受ける御奉公人を夫としていた。夫病死の後、息子郡次郎が家督を継いだが、身持ち不行跡のゆえ、浪人の身となった。だが、その際、養育金やら店賃やら150両余りを公儀から受け取っていたため、根津の女郎屋、浅草の茶屋、芝居小屋などへ1両、2両と貸しては高利を取っていた。1両につき1か月に銀12匁というから、金利20%の暴利である。そればかりではない。礼金として3匁徴収する。1両(銀60匁)借りたとすると、あらかじめ15匁を差し引き、45匁しか手渡されない。1か月を過ぎると、さらに延滞金が利息に加算される。ほんの二月三月放っておいただけで、とんでもない金額になる。因みに、江戸幕府は年利20%を上限としていた。無論、この婆々の取った利息は明らかな違法である。なお、原文では利息を「利足」と表記する。お金のことを「おあし」とも称したことによる宛て字に違いないが、面白い。
借金の取り立てが苛烈を極めたことはいうまでもない。家を取り壊し、家財を押収する。風雨にも負けず、毎日貸し付けた所を催促して歩く。青茶の布子に上田縞、紺の帯を締めて、真鍮の矢立を腰に差し、ぐるぐると取り立てに回る姿は「いか成る鬼のやう成る者も動ぜぬ悪意地者なり、此婆々を見るとぞつとすると云」(139ページ)と評せられるほどであった。
そうしているうちに、同類が現われる。同じ町の「渋紙婆々(しぶかみばば)」と呼ばれる同業者だ。気脈を通じたこの二人、連れ立って取り立てにわめき歩くことになった。まさに「三途川姥が分身したるか」(同ページ)と疑うほどである。車銭(=丸い硬貨)を貸すからか、両人が車の両輪のようだというわけか、雨の日も風の日もぐるりぐるりと回るというのか、人々が「車婆々」と呼ぶようになった。
金貸しには借り手が自然と集まるものである。特に賭博に使う金はその日限りが多い。婆々の事業は拡大する一方だった。1両を1日貸して200文の利息を取る(5%)。明日までは待てない。もし翌日になってしまえば、利息は400文となる。1両が4000文だから、20日で元金の倍となる計算だ。
この婆々の金はもともと公儀御徒士衆にあった。そこで烏金(からすがね)と揶揄された。御徒士が黒縮緬の羽織を着ていたからである。また、2、3年連れ立った渋紙婆々が死んだ後、車婆々一人になったため、片輪車と人々は呼んでからかった。さらに、茅屋町の茶屋の女たちは、この婆々のことを「高田婆々」とも呼んだ。越後高田の城主榊原氏が片輪車を紋所としていたからだという。
この車婆々は、時代劇に登場する陰険な金貸しと違って、何となくユーモラスでさえある。渾名を付けてからかうくらいだから、人々も心底から憎んでいたわけでもなかろう。恐らく、この婆々は、ほとんどの場合、困窮を極めて貸しても返せないと判断した者には初めから貸さなかったのではないかと想像される。暴力に訴えてでも、あるいは草の根分けても捜索して取り立てるという峻烈を極めた姿勢がもしあったのなら、「車婆々」という程度の渾名で済むはずはないからだ。