(98) 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(11)
14.01.15
圓朝は、前田備前守の江戸の留守居役勤めた出淵(いずぶち)太吉の兄である大五郎を祖父に持つ。本名を出淵次郎吉という。大五郎が妾腹の子であったため太吉が本家を相続し、自身は下総葛飾郡の一農民となっている。大五郎の長男長蔵は、太吉の養子となり、家督を継ぐべき身となったが、武道を嫌い、左官職を経て三遊亭圓生の門に入り、橘家圓太郎と称した。圓朝はその圓太郎の息である。芸人というだけでなく、武家の血が入っていたから、「普通の芸人には珍しき立派な品性見識を有ち、単なる落語家といふよりも勝れたる芸術家、自然に磨かれたる好紳士であった」(信夫淳平『反古草紙』昭和4年7月刊、有斐閣)と評せられるに至った。
安政2年(1855)、わずか17歳にして真打に昇進した圓朝が当初得意としていた演目は、芝居話であった。歌舞伎俳優などの声色を使い、話が進んで佳境に入ると後幕が落され、背景に芝居の道具建てが現れるという趣向である。
一流の寄席で真を打つことになった時、圓朝は、この機会に一挙に評判を取りたいと思った。そこで初代圓生の名を高からしめた芝居話を高座にかけることに決めた。初日、2日目と出し物を考え、仕度を整える。書割りを楽屋へ運び込むと、師匠である圓生が芝居道具を見て、今夜の出し物について確認する。前座が終り、自分の出番より前に出た師匠の高座を聞いて耳を疑った。圓朝が芝居話で演じることになっている演目を先にやってしまったのである。動顚したものの、何か演じなければならない。万策尽きて、書割りにこじつけられる話を急遽持ち出してその場を凌いだ。どう見ても意地悪としか思えない。楽屋へ下りて来ると、圓生の姿は見えなかったが、師匠のすわっていた楽屋蒲団から、嫉妬が黒い炎を上げているのが彼の目に見えた(小島政二郎『円朝』上)。
これは決して小説の上での誇張ではない。さらに、森銑三『新編明治人物夜話』(2001年8月刊、岩波文庫)に引く『漫談明治初年』から次のような逸話を紹介しよう。圓朝を師匠として親炙していた三遊亭一朝(いっちょう)の談話である。
円生からは、師匠もさんざんいじめられたのですが、その人がなくなってからは、子供を引取って世話していた。師匠はそういう情深い人でした。円生の子を世話した外にも、師匠がまだ小円太といって、円生の前座を勤めていた頃に、音曲師の勝蔵というのがあって、師匠をよく撥(ばち)でなぐったものだそうです。それだのに、後に勝蔵が病気で寝ついてからは、師匠は、「ワリを勝さんへ持ってお出」といって、届けさせました。これには勝公も涙を流してありがたがり、床から這出して、代地へ向って手を合せて、「相済みません。昔は大撥でなぐりこそすれ、眼を懸けたんじゃございませんに。それにこうして下さる」といって泣いたということです。(同書、286ページ)
師の恩には篤く報い、弟子を見ることもまた慈愛に満ちていたという。まさに人格者の名にふさわしい君子人であった。
圓朝の芸は、人情話において「平淡の物語と一本の扇子とで天下独特の声誉を博」し、「世態人情を説いて能く真に迫り、話中の人物を十人十色に描き出す所、宛然シヱクスピーアに彷彿たるものであつた」と信夫淳平は尊敬の念を持って評している。信夫の言うところは、現代のお笑い芸人には耳が痛いことであろう。以下にそれを引いて、圓朝の項を締めくくることとしたい。
同じ人を笑はせるにしても、他の鹿連はこちらで笑はねば無理にでも笑はせたがる。腋の下をくすぐつてゞも笑はせようとする。客がたゞ笑ひさへすれば落語の芸道は尽せりと考ふる風がある。が、流石に圓朝のみは、自然に人の頤を解かしめた。向ふを笑はせるものも自然であれば、こちらの笑ふのも自然である。彼と聴客とは、感じがぴたりと合致して自然に笑つたり泣いたりする。(『反古草紙』390ページ)