(74) 生き抜いて光を見る
13.05.07
先日、江戸東京博物館の「二〇一三年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」を観てきました。大河ドラマで一躍脚光を浴びた「新島八重」にまつわる様々な品や資料が展示してあり、八重が実在の人物であったことを改めて実感しました。八重は、会津時代に戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城し、自らも銃をとったことから、幕末のジャンヌダルクと呼ばれ、日清・日露戦争には篤志看護婦として活躍したことから、日本のナイチンゲールとも言われています。
展示品のなかでひと際目をひいたのは、八重の詠んだ短歌でした。
いくとせか みねにかかれる むら雲の はれて嬉しき ひかりをそ見る(新島八重筆和歌短冊)
昭和5年、八重が86歳の時の作です。昭和3年に松平容保の孫節子(勢津子)さまが秩父宮雍仁親王とご結婚なさったことで、戊辰戦争から60年が経ってようやく朝敵の汚名を晴らすことができた喜びを表現しています。会津の人々にとって、この60年はどんなに苦しいものだったでしょう。
戊辰戦争に敗れ、青森県下北半島の斗南(となみ)藩に移封された会津藩の人々が、とても惨めで、辛い生活を強いられたことは、柴五郎の『ある明治人の記録』によって知ることができます。極寒の地での困窮極まる生活の中、五郎は父からこのように言われました。
「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。(石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書、75頁)
「生き抜け」、「死ぬな…」という言葉は、八重の心の中にも響いていたのではないでしょうか。生きていたからこそ、暗く重くのしかかっていた雲が晴れて、光がさしたという冒頭に紹介した短歌は、観る人の心を打ちます。
展示品の最後には、「昭和三年京都会津会 秋季例会記念 集合写真」がありました。昭和3年11月10日、昭和天皇の即位儀礼が京都御所で行われたとき、会津の人々も式典に出席していました。京都会津会は、会津ゆかりの人々の上洛を歓迎し、西雲院で秋季例会を開いたのです。集合写真はその時のもので、新島八重も柴五郎も一緒に写っています。皆、満ち足りた表情をしているのが印象的でした。
さて、この話を授業でしたところ、福島のいわき出身の学生が小躍りして、目を輝かせながら聞いていました。会津出身の学生も嬉しそうです。会津っ子だけでなく、福島出身の学生にも「会津魂」は生きているようです。八重や五郎のように生き抜いて40年後、美しい福島の海をもう一度眺めてほしい、と願わずにはいられません。