短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(72) そして『菅家後集』は残った①

13.04.15

右大臣・菅原道真(845~903)は57歳の時、25歳も年下の左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)により、大宰権帥に左遷されました。『大鏡』には、道真が配所に行くまでのことが詳しく書かれています。

いよいよ自邸を離れるという時、庭には梅の花が美しく咲いていました。道真はこの梅の花を生涯忘れがたい風景として、和歌や漢詩に詠みました。

東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花主(あるじ)無しとて春を忘るな(春風が吹いたなら、梅の花よ、お前の香りをおくって寄こしてくれ。主人の私がいないからといって春を忘れるでないぞ。)

また、大宰府に行く途中、明石の駅長が道真を見て驚いたのに対し、「駅長驚くことなかれ。時の変わり改まること。一たびは栄え一たびは落つる。これ春秋。」と告げたことはあまりにも有名です。

さて、配所で作詩した漢詩をまとめたものを『菅家後集』と言っています。大宰府で幽閉された道真の無念が伝わってくる漢詩集です。

城に盈(み)ち郭(くるわ)に溢れて幾ばくの梅花ぞ 猶是れ風光の早歳の華のごとし 雁の足に粘(ねえつ)き将(もたり)ては帛(きぬ)を繋げたるかと疑ふ 烏の頭に点(さ)し著(つ)きて家に帰らむことを思ふ(「謫居の春雪」『菅家後集』514) (春の雪は城一杯に満ち満ちて建物にも溢れるほど降り敷き、一体どれくらいの梅の花が咲いているのかと思わせるほど。雪は風に揺られ梅花が光ってまるで季節に先駆けて咲く花のようだ。雪はあたかも蘇武が託した手紙のように雁の足に粘り着いて、白布を懸けたかの如く、燕(えん)の太子丹(たいしたん)が故郷に帰れたように烏の頭に雪が積もって白くなったように見える。さて私も家に帰ろうではないか。【訳】佐藤信一)

都の我が家に帰りたいと思いながらも、道真は二度と都に戻ることなく、配所にあること三年、大宰府で亡くなりました。

時平は政治家として名を残しました。一方、菅原道真は政治家でもありましたが、文学の世界で名を残し、その詩歌は今でも私どもの胸を打ちます。どちらの生き方がよいとか悪いとか、一概には言えませんし、道真の漢詩集が現代にまで残ったというのも結果論ですから、道真はやっぱり無念で「報われない!」と思いながら、その生涯を終えたのかもしれません。それでも、道長に深い同情を寄せ敬愛の念を抱かずにいられないのは、巧言令色・右顧左眄・佞臣はびこるこの現代、左遷された道真が、サラリーマン世代にとっては自分のことのように思われるからでしょう。

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」(藤原定家の言葉)――文学をこよなく愛する人はこの生き方を貫くものと思っています。

※道真の和歌や漢詩をもっと味わいたい方には、佐藤信一先生の『コレクション日本歌人選043 菅原道真』(笠間書院)をおすすめいたします。

(し)
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