(66) 柴五郎の遺文(5)
13.02.12
9月8日、明治と改元されても、会津若松に銃声は絶えない。敵軍の追及はやまず、面川に逃れていた国家老内藤可隠一家が包囲されて自刃している。9月20日ごろ、長兄太一郎が足に銃創を受け、山荘へかつがれて現れる。すでに討死したものと思っていた家中の者がこぞって出迎えた。この日、柴一家の殉難を叔父清助から聞かされた太一郎の心痛を「いかばかりなりしか」と、五郎少年は推し測っている。
この太一郎に付き従う陣森兵蔵という従者の逸話が面白い。
敵の探索を恐れて、山荘からさらに奥まった渓谷に隠れ場所を設けると、そこで負傷した太一郎と五郎と兵蔵の三人が籠った。もっぱら兵蔵が太一郎の看護に当たり、五郎は百姓の姿であるから、人影のないのを見計らい、山荘に通って食物を運んだり、汚れた繃帯を土中に埋めたりした。
兵蔵の郷里は越後濁川。相撲好きで田舎関取であったという。賭博を好み、喧嘩は日常茶飯だが、情誼に厚く、自ら侠客をもって任じていた。五郎の叔父の一人守三が越後方面に出陣中、従僕として雇用したところ、戦争は面白いと言って、常に戦陣の先頭に立って戦った。負傷した叔父の看護を終えると、再び戦陣に馳せ戻り、軍事奉行の任にあった太一郎に随従したのである。
越後軍が敗れ、若松へ敗走して東松嶺から鶴ヶ城を望めば、一面火と黒煙の海である。これを指して、「会津は落ちた。われらはこれから城に馳せ参じて自害するのみ。お前はもともと会津とは何のゆかりもない。われとともに死ぬ義理はないのだから、すみやかに帰郷せよ」と、太一郎が金子を与えて訣別しようとしたところ、兵蔵はにわかに色を変じて、こう憤慨した。
「これは驚き入りたることかな、主人の言とも覚えぬ無情無慈悲のお言葉なり。吾等下賤の博徒なりといえども一宿一飯の義理をたっとぶ、その家に難あれば身命を棄つるものなり。しかるに何ぞや、主君ただいま国難に赴くにさいし暇をたまわらんとは、まこと義理もなく人情もなし。御命令なれど、だんじてお断り申す」〈第一部、34ページ〉
憤然たる面構えで梃子(てこ)でも動かない。その真情に打たれた太一郎は、兵蔵を伴って各地を転戦した後、ついに面川沢に至ったのであった。戦後、太一郎が病院に収容されると、主人の前途は安心だとして暇を乞い、元の博徒に戻り天下を放浪すると述べ、兵蔵は飄然と立ち去った。
その後杳として消息が知れなかったが、明治6年、五郎が陸軍生徒隊(=後の陸軍幼年学校)に在校中、突然兵蔵からの音信がある。浅草寺に寄宿中の太一郎とともに再会し、流涕して無事を喜び合った。翌年、妻も得て米搗を業としていた兵蔵の許を訪れた太一郎らは、簡素ながらも情のこもったもてなしを受ける。夕刻、別れに際して、兵蔵は畳に両手をついてこう言った。
「わしも真面目に堅気の商売を思いたち、どうやら暮してまいりましたが、とうてい永続きの自信はございません。博徒は、やはり博徒仲間と暮すのがいちばん生き甲斐あること、もはや戦などあるわけもなく、楽しきこと何もございません。これよりふたたび放浪の身となるつもりで、本日お招きいたしたところ、こころよくおはこびを得て嬉しきことこのうえもございません」〈同、35ページ〉
訣別の挨拶をした兵蔵は、その後消息を絶ってしまう。戊辰戦争の時分36歳、再会の折には42歳であった。五郎は「惜別の情とくに深し」と結んでいる。